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価値対象性としての等価形態

3:Re: 非直接的交換可能性
megumi 07/26 19:56
田中さんの<価値存在と価値対象性>について次の主張がありました。
「商品は単独ではただその現物形態=使用価値としての対象性をもつにすぎません。他の商品と交換関係(価値関係)を結ぶことによって、他の商品の現物形態=使用価値を自らの等価形態として規定する。そして等価形態にある商品の使用価値を自らの価値の現象形態=感性的に把握されうる形態になすことにより、自分の価値対象性を表すのです。」(価値対象性としての等価形態)

わたしは、<商品の判断>についてへの設問と思えたので、榎原さんの主張を紹介しました。

協同組合運動研究会の術語集 (7)判断形式の特質・・・には先の紹介が次のように訂正されていました

「話を商品に戻しましょう。商品にある種の抽象化がそなわっていることは了解したとして、次に問題になるのはそれがどのように判断をするか、ということです。抽象化の能力があるだけでは意識を支配できても、意志を支配することはできません。判断が示されることによってはじめて、人間の意志が発動されることになります。
 この点では、商品は極めて巧妙に立ちまわります。テレビは自分の社会性が2着のスーツであると主張しているのですが、この判断の形式は、テレビが社会的なものそれ自体を示すのではなくて、一定分量の物でこれを示すことを特徴としています。
 そこで人間は不可避的に錯覚に陥ります。テレビの社会性は等価形態にあるスーツの自然的な性質であるかのように見えるのです。
 判断の形式がこのようなものですから、人間は商品の本質とは何か、とか、それがどのようにして抽象しあっているか、といったことは何も知らなくとも判断の内容だけははっきりと理解できます。
 こうして、商品が抽象し、判断することのできる存在であることが示され、人間の意志を支配しうる存在であることが証明されました。ところが人々は、このことを認めません。」

商品形態――自然的形態と価値形態あるいは、使用価値と直接交換可能な使用価値(交換価値)の2重の姿態は、商品の判断を明示している――と榎原さんに同調したのです。資本論四版では、使用価値と価値形態の二重の姿態の「意義」についてこう述べられていました。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、それの価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。(原P75〜76)

この段落の意味について、今まで理解できていませんでした。
商品は、商品の価値関係を構成する上で、自然的形態と価値形態が、両極の二重の姿態として「意義をもつ」と判断しているのですね。価値形態は使用価値の直接的交換可能性の形態であり、直接に社会的性格を有すると判断されることから、「単純な商品形態は貨幣形態の秘密である」(初版付録第三節)と、マルクスが喝破したのですね。初版で註33・四版で註34の、プルードンの労働貨幣論への「一般的直接的交換可能性」と「非直接的交換可能性」の「不可分離性」の無視という批判は、商品の判断の存在を暴露するものだったのですね。
 おかげさまで、新しい読みに挑戦できました。



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