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信用資本と現実資本(1)田中一弘

2:信用資本と現実資本(2)田中一弘
ebara 05/10 21:15
信用資本と現実資本の関係(2)

                         田中一弘

 一般に、ブレトンウッズ体制は、特に金融市場を規制(資本移動の規制、固定相場制の採用)する体制である、と理解されています。しかし、『アメリカ帝国主義と金融』によれば、それは金融の抑制をもたらしたものではなく、「むしろ、新たな自由貿易秩序を生み出すためにその当時蒔かれた種子が金融資本の影響力とパワーとに作用し、その強化のために貢献したと考えるべきである。」(『アメリカ帝国主義と金融』、p.15)
 ブレトンウッズ体制が「グローバル金融秩序の揺籃期」(p.20)であるというのは、アメリカ「国内のニューディール政策は、コーポラティズム的な規制と金融機関相互の競争の抑制とを意味していたのであって、アメリカ社会における強大な勢力としての金融資本の抑圧を意味していたわけではなかった。」そして、重要なのは、資本規制の実施を「アメリカ自体が拒否したことであり、ワシントンとニューヨークにおける期待は、アメリカ以外の諸国が行うにしても、あくまで資本規制は経済再建の過渡期に限ってのみ行われるべきであるとしていたことである。」(p.26)
 また、ブレトンウッズ体制の時代は、同時にケインズ主義的政策、あるいは福祉国家の時代でした。すなわち、「戦後における階級勢力のバランスは、以前のように労働者階級を抑圧することがもはや不可能であることを示していた。このことが金融資本の強化をよりいっそう重要な課題に押し上げた。」(p.29)では、この課題は、どのようにして果たされていったのでしょうか。
 戦後の世界経済は、圧倒的な経済力をもっていたアメリカが、ヨーロッパや日本のような戦争で疲弊しきっていた他の資本主義国の復興のために援助を与えることにより、その歩みを始めました。その過程は同時に、アメリカ資本の海外進出を意味するものでもあり、すなわち、「なによりも、アメリカ国家がその他の先進資本主義諸国に対して経済的な浸透を実現し、両者の間の密接な結びつきを強化している」(p.20)ということを意味しています。
 「ポイントは、国家を超えて多国籍的に活動する資本家階級が現われたということではない。事態はもっと複雑である。各国の資本家階級はその独自性を維持するが、歴史的にそこに根を張る国内資本も、それと並んで自らを確立した外国資本も、資本主義秩序を拡大・運営していくために、いまや互いに相手国に依存し、とくにアメリカ国家に依存するようになったということである。」(p.36)
 この認識は、前回の投稿で取り上げたものと基本的に相違はないと思いますが、彼らの独自性は金融資本に重点を置いて理解している点にあります。逆に小松聡さんは、産業資本に重点を置いた分析をしています。私の問題意識―現実資本と信用資本との関係―からすると、小松さんの見解も非常に参考になります。しかし、現実資本とは、単に産業資本を意味するだけではなく、その媒介者としての金融資本―本来の意味での利子生み資本=産業資本家へ貸し付けられて生産過程に投下される―資本をも含めて理解すべきでしょう。したがって、『アメリカ帝国主義と金融』が示している視点はよりいっそう重要だと理解しています。戦後の経済成長は産業資本の成長であった以上に、金融資本の成長でもあり、それが信用資本主義を準備した条件の一つであった、ということです。
 新自由主義への移行、信用資本主義への移行についてみてみましょう。1970年代からのインフレーションは、金融資本に対して「二重の圧力」をもたらしました。つまり、「収益性の全般的な危機がもたらす影響という圧力に加え、この危機の形態がとりわけ金融資産に対して与えた影響としての圧力である。」(p.42)この事態に対して、金融資本は、「金融サービスの重要な革新を推進して」いくことによって、対応しました。「これは銀行業の役割を、直接的な信用仲介機関(特定の顧客から預金を受け入れ、特定の顧客に資金を貸し出す)から、非人格的な証券市場における貸し手・借り手間の取引仲介へと変化させるものであった。」(p.43)さらに変動相場制への移行にともない、「信用の民営化に端を発する、機会の拡大、リスクの増大、とりわけ競争の激化は、金融部門の、よりいっそうの劇的な革新、とりわけ証券部門の領域拡大へとつながった。」(p.44〜5)また、「金融資本以外の資本も、七〇年代末までには、インフレーションへの取り組みを優先事項にする必要があることを認め、それによって金融資本を強化することが自らの利益にもかなうものであることを一般的に認識するようになった。」(p.60)「金融資本以外の資本」とは産業資本や商業資本にほかならず、彼らの価値実現のために金融資本が重要な役割を果たしているという、前回の投稿で述べた点に合致します。ここで重要なのは、主導権はあくまでも金融資本の側にあった、ということです。
 このような金融資本の革新は、「同じ時期の戦闘的な労働者階級やその他の大衆的勢力と対峙することになった。すべての先進資本主義諸国は、この時期に階級関係の根本的な問題と取り組まなければならなくなった。しかし、どの国も金融資本を抑制しようとはしなかったから、抑制しなければならなかったのは労働者階級のパワーのほうであった。」(p.46)
 「真の問題は、正しい通貨政策の追求ではなく、むしろ、階級関係のリストラであった。インフレ期待の抑制は、労働者階級のアスピレーション(意欲)と、それを実現しようとする集団的な力を妥当しなければ実施不可能であった。」(p.63)
 インフレの主要因のひとつに賃金交渉における労働者階級の戦闘性があった、という認識の下、金融資本の代理人としての国家は新自由主義的な政策を推進した、このように把握されています。(以前の私は、この階級闘争を産業資本の観点からのみ考えていたために、新自由主義と信用資本との関係がはっきり理解できていませんでした。今回、初めて納得ができました。)
 金融資本の革新は、同時に金融自由化でもありました。さらに、金融自由化は資本移動の自由をも意味するものなので、同時に金融の国際化でもあったのです。
 「そのことが、当時国際通貨としてのドルの地位を最終的に維持し、アメリカの政府証券を金と同じくらい好ましい(むしろ、実際はそれが金利を払ってくれるために金よりも好ましい)と感じさせることになった。したがって、金融の構造上のパワーを強化することによって一九七〇年代の危機を解決したことが、グローバル資本主義を復活させる上でのアメリカ国家の能力強化をもたらしたのである。」(p.61)
 最後に、現実資本と金融資本との関係についてみてみます。「資本市場の深化、とりわけそれが生み出す競争圧力と流動性とが、どれほど資本の生産性と収益率の向上につながったか」というと、「金融機関は、企業や政府に対する規律づけの影響力を行使するだけでなく、さらに、企業や部門を越えて資本の再配分を行ったり、技術の普及を支援したりすること(すなわち、相対的に非効率な企業からの素早い撤退、リスクは高いが革新的な新規事業への支援、新しい技術の旧部門への普及)によっても、その役割とパワーとを強化した。」(p.75)このような見方は、信用資本といえども、単に架空資本の売買による収奪だけではなく、現実資本との関係でも機能していたことを示すものです。ヒルファーディング的な意味での金融資本概念は効力を失ったのでは、という榎原さんの見解には賛成ですが、このような側面を無視することはできないのでは、とも思うのです。
 上記の見方から、アメリカ産業資本の衰退という見解に対する批判が導き出されています。
 「アメリカによる対外直接投資は、一九九〇年代を通じて拡大を続けたが、その一方で国内の製造業は、実際この時期、他のどの先進国よりも急速に―ずっと急速に―成長した。それゆえアメリカの貿易赤字は、製造業と輸出における競争力の喪失によってもたらされたのではなく、他のどの先進資本主義国よりも急激な人口増加を経験し、労働人口比率も急激に高まっていた―さらに、より長時間の労働もともなっていた―アメリカ経済のきわめて高い輸入性向によってもたらされたものであった。」(p.85〜6)
 この輸入性向の高さに一役買ったのが、消費者金融です。「進行する危機」 (『現代思想』2009年1月号所収)という論文のなかで、パニッチたちは次のように論じています。
 「最終的には、労働者階級や黒人社会、そしてヒスパニック社会を統合する主要手段として、公共支出よりもむしろ金融市場に依存するという事態をもたらした。」(p.118)
 「ニューヨークとロンドンは世界中で産み出される貯蓄にその触手を伸ばし始めていたが、それは「新興市場」に新たに出現した労働者階級を高い搾取率をもって働かせることによって抽出される剰余に依存するようになってきた。それに加えて資本の可動性が豊かな国の労働者階級の所得に課す制約そのものが、こうした労働者の金融領域への更なる統合という効果をもたらした。このことはクレジットカードの一般化のなかで増加する借入金という点から見れば、もっとも明らかである。」(p.122〜3)
 新自由主義体制の下で、いかに労働者階級が信用資本の支配に巻き込まれていったかということです。公共支出の削減により、労働者階級が住宅ローンなどの信用市場に参入せざるをえなくなった点が、強調されています。労働者階級はイデオロギー的にはもちろん、生活上でも信用資本主義にからめとられざるをえない、ということでしょう。
 アメリカへの資本流入については、それが「アメリカの赤字を『封殺』するための代償であった―もっぱら国際貿易統計のみに焦点を当てた分析はそう考えるのだが―わけではないことに再び注目することが重要である。この資本流入は、アメリカの金融市場やアメリカ経済一般に参加することで得られる相対的な安全性、流動性、高収益性に投資家たちが惹きつけられたことにより主にもたらされたものであった。ドルは、そうした資本流入のおかげで最近まで相対的な高水準で維持され、そうした高いドルがアメリカの消費者や企業による外国商品の安価な輸入を可能にした。」(p.86〜7)
 アメリカの収支赤字の補填という意味が全くないと主張しているわけではありません。しかし、赤字額の何倍もの資本流入がなされていることは、赤字補填では説明できず、金融資本権力の確立という事態にもとづいている、ということでしょう。
 パニッチたちは、このように現代の資本主義をアメリカの金融資本を頂点とする帝国主義として捉えています。ただ、残念なことに、信用資本という視点はなく、また、架空資本の売買による投機資本主義という認識も薄いようです。ただ、戦後経済を金融資本の強化という一貫した視点で見る方法は、示唆するところが大きいと思います。たとえば、新自由主義への移行を階級闘争と経済構造との関連で把握している点は、大いに勉強になりました。彼らの議論は榎原さんがかかげた研究課題のひとつである「理念的には優位にある架空資本が、現実的にも優位になれる条件の形成」の探求を、歴史的に行ったものとして評価できるのでは、と思いますが、どうでしょうか。みなさんのご意見をお待ちしております。

参考文献
小松聰 『世界経済の構造』
本山美彦、萱野稔人 『金融危機の資本論』
レオ・パニッチ、サム・ギンディン 『アメリカ帝国主義と金融』
『現代思想』2009年1月号
信用理論研究学会編 『金融グローバリゼーションの理論』、『現代金融と信用理論』


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