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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

2:Re: 小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、
田中 02/12 06:35
「ここでは交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。」

megumiさん、以前の議論をむしかえすようで申し訳ないのですが、価値実体に関して質問させてください。価値実体としての抽象的人間労働は歴史的な規定性であることと、それが生理学的な支出であることとは矛盾しないという解釈は成立しないでしょうか。以下の資本論の叙述をいかに解釈すべきかという問題です。
「彼らの私的諸労働の独特な社会的性格」とは「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」(同p.126)であり、「互いに’’まったく‘‘異なる諸労働の同等性は、ただ現実の不等性の捨象、諸労働が人間的労働力の支出として、抽象的人間的労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成り立ちえない。」(新日本版1、p.125)
具体的有用労働の量的規定としての労働時間は感性的に把握できるものです。そのような意味では具体的労働時間として規定できます。しかしその具体的属性が違えば、同じ量だから同等の生理学的支出であるとはいえない、このことは小学生でも解かる問題ですね。福田jr.が冷や汗をかきながら官僚がつくった答弁書を棒読みする1時間と、私が現場でセメント袋を運んでいる1時間とは、まるで異なる生理学的支出です。(ちなみに社会的有用性の観点から言えば、途方もない違いがあるように思っていますが。)
このまるで異なる生理学的支出を交換関係の内部で同一の尺度に基づく量へと還元するのが、事態抽象としての交換関係、あるいは価値形態ではないでしょうか。社会的平均化としての事態抽象です。それが抽象的であるといわれるのは、社会的平均化が人間の思考では捉えどころのないものとして行われる、このような意味ではないでしょうか。吉原さんが生産技術系のデータから抽象的人間労働が確定されるか否かという論点を提示していましたが、それに対して反論するためには抽象的人間労働としての生理学的支出という一見形容矛盾した規定性を考える必要があるのでは、というのが私の現在の見解です。
「価値を形成する実体」=生きた労働=生理学的支出としての労働、価値実体=商品で表される労働としての抽象的人間労働という榎原さんの解釈に違和感を感じていました。私は前者と後者を区別する解釈をしていないからです。正確にいうと、「価値を形成する実体」は生きた労働ではなく価値実体としての抽象的人間労働として理解しています。訳書をみるかぎりでは「価値を形成する実体」という用語は、商品論においては一箇所にしか登場していないように思います。そこでの文脈の理解としての話です。この用語法がほかにもあるならば、教えてください。区別をみとめていないものですから、読み落としている可能性大です。



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