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田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想

2:Re: 田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想
田中 01/14 14:40
私の「シュタイナーの社会理論に関する批判的検討」(以下「検討」と略)(1)は、シュタイナーの社会理論そのものの検討の前段として、シュタイナーの方法論を検討したものです。社会理論に関する具体的な検討はまもなく掲載される(2)で行っていますので、そちらをご覧ください。
(1)社会三分節化論と霊学の関係について
霊学と社会三分節化理論との関係は、解釈の相違と考えるほかはないようです。(1)の末尾で述べたように、社会三分節化論はすべてを霊学の観点から行っていない点は、私も認めるところです。しかし、第一にシュタイナーの変革論が個人の自主的な道徳的判断に基礎を置くものであること、第二に道徳の形成を霊学に求めていること、以上二点から社会分節化論と霊学とは切り離せないのではないかというのが、私の解釈です。社会三分節化論それ自体を理解するのに霊学の知識が必要でないことは、霊学にふれたことのない私でも解釈できたように、私も否定しません。問題は分節化全体を支える理論、あるいは分節化の形成力としての道徳をシュタイナーが主張し、「私たちを道徳行為に駆り立てるもの」が「霊界から来るのではないとすれば、それは真の現実性をもちません。」(『未来』p.77)と述べていることから、三分節化論の方法論として霊学が存在することは否定できないのでは、ということです。
わたしはシュタイナーの霊学的観点を理論的に批判しているだけであり、そのような観点を持っていること自体を非難するものではありません。非難という語が排除的作用あるいは差別的作用を意味する限りでは、そうです。信教の自由を認めるということと、宗教を批判するということは、別の事柄ではないでしょうか。旧社会主義国の誤りは両者を同一視したことだと思っています。
(2)唯物論と道徳あるいは精神問題の関係
私は確かに唯物論の立場ですが、榎原さんの諸論文に学びつつ、(1)で述べたように意識を関係として捉える観点に賛同します。したがって、「道徳や真善美や喜怒哀楽や愛と憎しみなどのいまだ解明にいたらない精神活動のすべてが幻想にすぎないもの」とは考えていません。それらは「幻想」ではないがそれ自体を自立的な超歴史的なものとして把握することを批判しているのです。それらの意識形態がどれも他者との関係を含むものである以上、人びとの社会的諸関係による規定性をまぬがれるものではない、このように述べているわけです。社会的意識諸形態という用語も以上のように理解しています。したがって、「もし霊的、魂的存在の現実性を否定するなら、いかなる道徳の根拠も喪失し、人間の道徳は荒廃死滅せざるを得ない。」のではなく、道徳の根拠の求め方が異なるのです。
たとえば「自由」という語を一つとっても、それが使用される社会定文脈によって様々な意味があるように思われます。その具体的内容を問題にするのが唯物論の立場だといえるでしょう。単に物質的状況の反映として片付けられる問題ではないと、私は考えています。






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