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価値対象性としての等価形態

2:Re: 直接的交換可能性
megumi 07/25 07:14
田中さんの<価値存在と価値対象性>の提案は、明解ですばらしいです。

しかし、価値対象性を表す価値形態上着との規定は、上着が価値物上着としてリンネルに等置されたからでした。リンネルの価値存在は、価値物上着を、価値体・あるいは、榎原さんの言葉で言えば、上着を価値の化身・人間的労働一般の化身とするリンネルとの反省規定の関連による事態抽象のなかで現れたのでした。<価値存在と価値対象性>は、商品の価値関係を表す一対の概念だと思うのです。だから、わたしは、両者ともに超感性的なものを表す表現と思うのです。

ところが、田中さんはこう述べています。
「価値対象性とは、価値が感性的に把握されうる対象となっている、という意味で理解しています。」
「価値対象性」を巡る議論を、<物象たる商品の判断とは?>とわたしは考えてみたいのです。
榎原さんの、人々の理論的抽象ではなく、等価物上着の役立ちによる事態抽象・・・を明らかにしての物象化の明示は、すばらしいものでした。しかし、次の物象的関連による「判断」の提案は巧くないように思うのです。

「ところが商品が価値関係のなかで行う抽象作用は、単に抽象しているだけでなく、判断をも提示しています。1台のテレビは2着のスーツに値する、というように相対的価値形態にあるテレビの価値の大きさが、等価形態にあるスーツの量で判断されているのです。」(文化知の提案―新しい社会運動の原理―第5章文化知の応用・概念的存在としての商品)

初版ではこの問題がこう提案されています。
「ところで、リネンが自分自身の価値を一着の上着で表すのか、二着で表すのかは、ここでの前提のもとでは、ひとえに一エレのリネンの価値の大きさと、上着形態にその価値が表現されるはずのエレの数によって左右される。一つの商品の価値の大きさは他の商品の使用価値のなかでのみ、相対価値として自分を表現することができる。それとは反対に、一つの商品は、他の商品の価値が表現される材料としてのみ、、直接に交換可能な使用価値又は等価物の形態をまとうことができる。」(初版 『マルクスコレクション?』 筑摩書房P292〜293)
 等価形態には量的規定性がないことの注意なのですが、四版ではこう表されていました。
 「商品Aの価値は、質的には商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。」(四版原P74四単純な価値形態の全体)
 等価形態にある「2着のスーツ」は、1台のテレビとの関連を価値の化身とすることで表すのだから、スーツは価値形態でありテレビは自然的形態であるという二重の商品形態をうけとる。つまり、等価物スーツを反省規定とする両者の価値関係のなかでは、両極の商品は、自然的形態と社会的形態の対立的形態を自ずと受け取る。そこで、等価形態スーツは、使用価値の自然的形態のままに、商品の社会的形態である使用価値の直接的交換可能性の判断を受け取り、他方のテレビは、私的で自然的形態である使用価値との判断をうけとる。
 等価物スーツは、テレビとの交換比率1対2を表すのでなく、2着のスーツの、使用価値の姿のままに直接的交換可能性を表しており、社会的形態を持つことで、テレビの価値の現象形態になり、超感性的姿態となる。しかし、そこに使用価値の価値表現の材料の具体的・自然的姿態をのみ見るならば、相対的価値表現でのように、商品は手で掴みうる自然的形態でしかないのである。スーツは、テレビの価値表現の材料となることでのみ等価物としての役割、反省規定を成しうるのだから、スーツは、<使用価値として価値の現象形態>の新たな規定(超感性的)を受け取る。、つまり、これが価値形態の秘密だと思うのです。

あるいは初版付録でこう述べられています。
「したがって、一つの商品がそもそも等価形態を持つという事態は、ただ次のことを意味するだけである。――価値表現によってそれ自身の実物形態は他の商品にとって価値形態として通用する、あるいは、それは他の商品との直接的交換可能性の形態を持つのである。このように、それが他の商品にとって価値として現れ、価値として通用し、他の商品にむけて価値として働きかけるためには、わざわざそれ自身の直接的実現形態から区別される形態をまとう必要はないのである。」(初版付録 筑摩書房P332〜333)

質問をしたり、他の考えを提案したりすることはすばらしいことです。そのなかから、今まできずかなかったことを思考できるからです。


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