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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

17:Re:諸交換価値と交換価値
 03/01 20:07
田中さん
>このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。

わたしは、
>「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」
と書いたとおりに理解しています。
>「一つの等しいもの」・・・・とは、
>その共通者としての同等な人間労働に還元され、
と述べています。

田中さんの述べる
>使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。

わたしは、商品形態である使用価値と交換価値の二重の姿態・・・の交換価値は、価値の現象形態であるので、使用価値の質的関係とは無縁なものであり、交換比率とはみなせないかと思います。

次のところの理解ですね。

簡単な価値形態の全体
「一商品の簡単な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。」(四版原P74〜75 )

私の解釈が、この「質的」なことばかりを意味しているのではないかということかと思います。
「量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。」
ここが、田中さんには量的比率であると主張されるのでしょうか?
「量的には、一定量の商品B」であり、量的なおおいさをのみ示すX量の商品Bであり、価値の現象形態としてのみ意味をもつ存在です。使用価値は捨象されて物質的基体としてのみ意味をもつ商品体Bであり、けっして「諸交換価値」ではありません。
 私はそのように考えています。

『初版』付録に次のような記述もありました。

§5商品の価値表現の単純な形式は、その商品の中に含まれている使用価値と交換価値との両対立物の現象する単純な形式である。

亜麻布の上着に対する価値関係の中では、亜麻布の生来の形式はただ使用価値の現象形態として働くだけであり、上着の生来の形式はただ価値の形式として、あるいは交換価値の現象形態として働くだけである。従って、商品の中に含まれている使用価値と価値という内なる対立は、外なる対立となって現れる。つまり、二つの商品の関係として表現される。その時、一方〔の商品〕は直接的には使用価値として働くだけであり、他方〔の商品〕は直接的には交換価値として働くだけである。あるいは、この二つの商品の関係の中では、使用価値と交換価値という二つの対立する規定が〔二つの〕商品のそれぞれに対極的に〔別々に〕割り当てられるのである。

私が「商品としての亜麻布は使用価値及び交換価値である」と言うとすると、それは商品〔亜麻布〕についての私の判断であり、それは〔認識主観による〕分析によって得られたものである。

しかし、20エレの亜麻布は1着の上着に等しいとか、20エレの亜麻布は1着の上着に値するといった表現の中では、?亜麻布が使用価値(亜麻布)である.こと、?亜麻布は使用価値とは区別された交換価値(上着に等しいもの)であること、そして?亜麻布はこの二つの異なるものの統一であり、商品であることを、亜麻布自身が語っているのである。(『対訳・初版資本論第一章・及び付録』牧野訳P116〜117)


価値実体を廻る論争としては、『資本論の復権』P167で、
第3者を抽象的人間労働としていますし、
或る内実を価値として区別しています。

この第二章、三章がこの問題をめぐるもので、榎原さんが、<俺の良い仕事>と自慢するものではないでしょうか。

その三章末尾近くに、
「価値と価値実体を混同することが、日共系学者や、反日共系の学者を問わず「通説」になってしまっているが・・・」
との記述もあります。『資本論の復権』第二章、三章をぜひ検討され、榎原さんに注文をつけてください。理解を得ているのが私などの少数者なのですから、(宇野経は自説の再検討などしない)何か欠点があるはずです。是非とも文句をつけてください。貴方の文句について私も考えますので・・・
田中さん、『資本論草稿集』7のベイリー・リカード論争へのマルクスの肉迫は、驚嘆しますよね。
次のページも開いてみてください。
http://www.freeml.com/yaponesia/5?sid=cc3dced341177d7bf1c9a73a92777c55


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