。ヲ office-ebara
小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

15:使用価値と交換価値
megumi 02/29 04:02
田中さん
交換過程で商品が、使用価値と交換価値の二つの姿態を持つというのは、具体的な現象ですが、価値形態と使用価値の二重の姿態を持つのは、価値関係が概念的存在を立証することでの分析の結果でありました。

「価値形態が概念的存在」であると榎原さんは次の二つの論文で強調していました。

もう一つの社会変革の可能性
(続)支配的文化のルーツ

 そこで価値形態の話になるんですが、2時間はかかる話を1分間にちぢめてしまいます。ポイントを言いますと、商品とか貨幣とか資本を単なる物ではなく物象という場合、それはその存在そのものが概念的存在である、ということです。概念的存在ということの意味ですが、それは人がこれらの物に自分の意志を宿すことができる、ということです。人がある判断、こういう時にはこうであるという判断をするとき、もちろん自分の頭で考えて自分で判断するわけですが、商品、貨幣、資本が登場してきますと、その判断を人は相手にあずけているんですね。自分の意志を相手にあずけている。もちろん自分の頭は使っているんですが、その判断の内容が相手によって規制されている、そういう関係なんですね。この関係が支配的文化のルーツにあり、ブルジョア文化の特性を形づくっていると思います。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=6

根源的他者と価値形態論

 ここではこれまでの批評との関連で、形態規定について考察してみよう。なお、当然のことながら、ここでの議論は、自著で明らかにした諸論点を前提にしている。
 価値形態が概念的存在であり、一つの思考形態であるにもかかわらず、思考と同一の規範をもたず、双方の間には根源的な他者性が見いだされること、このことが明らかにされると、思考にとっての問題は、この他者が一つの思考形態であることを了解することである。
 マルクスの価値形態論の従来の解釈は、このような問題が存在することに気づかず、他者である価値形態に思考の論理をもち込むことによって、自らの思考を混乱させてきたのであった。

・・・・略・・・・
このような事業は、思考にとっての根源的他者たる思考形態の存在を認めないがゆえにブルジョア文化と科学、及び哲学によってはなしとげられない。そして、この根源的他者を認めるところから、ブルジョア的な知の自己否定がはじまる。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=14


田中さん、人間の思考形態と、価値形態の思考形態との相違を認める・総括することが求められていると思うのです。

それが理論的抽象と事実上の抽象の相違として、価値形態論でまとめられていると思うのです。
商品の交換過程では、諸商品は、異なる使用価値の関連として現れてきます。しかし、使用価値と非使用価値つまり、自分にとっては使用価値で無く他人のための使用価値の関連ですね。
「使用価値としての諸商品相互のこのような過程的関係においては、諸商品は何ら新しい経済的形態的規定性を受けない。」(『経済学批判』国民文庫P45)

この困難の解決が、「等価物」の規定なのですね。

経済学批判でのこの展開と、草稿でのリカード・ベイリー論争を経ての資本論での<等価物上着の役立ち>を明示した価値形態論という概括ができるのではないか・・・・と思うのです。
しかし、このようにマルクスの歩みを辿ることができれば、『経済学批判』の記述でのマルクスの苦闘には頭が下がります。


1-

BluesBB ©Sting_Band