。ヲ office-ebara
小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

14:Re: 共通認識
 02/27 03:19
ちょと後戻りします。
田中さんの主張
>ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
・・・・・・・・略・・・・・・・・・
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。

田中さん残念ながら、これらの主張には、
>われわれの共通認識
はありません。
>私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態
とは?「価値」でなく、価値形態であり、等価物である使用価値上着をへての回り道だからです。価値形態・使用価値の二重の商品形態とは、価値関係の質的側面であり、価値形態の秘密としての使用価値が価値の現象形態に反照(反省)させての、両極での規定としての価値・使用価値の現れであるからです。反省規定としての超感性的な価値形態なのですから、等価物上着をその姿態のままに使用価値であるとみる<価値関係を使用価値の関連>――とする見解には、この「反照」への文字どおり反省が無く、物象の社会関係への理解はありません。

どうだったでしょうか?使用価値リンネルには使用価値上着が等置されましたか?
使用価値リンネルには「価値物」上着が等置されました。使用価値・価値物の関連が与えられるからこそ、等価物上着の等置であり、価値形態上着の規定の現出でありました。相対的価値形態の対極にある等価形態上着は、直接的交換可能性が与えられているのですから、上着の自然的属性が価値でありと見えますが、そうでなく、等価形態の謎性に惑わされたからでしたね。価値関係とは概念的存在なのですから、超感性的な価値形態上着の規定がなければ、商品は互いに価値関連し得ないのですね。価値関係の質的側面への理解は、リカード・ベイリー論争への総括が必要ですね。どうか、田中さんも草稿集の7巻P184以降P249を参照願います。


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