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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

12:Re: 複雑労働の単純労働への還元
megumi 02/22 02:03
田中さん、次のは旧戦旗派に属して、宇野経済学に依拠した人物の<交換価値から還元される共通者>の理解を示した、典型例です。

 「およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
 ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間によって決定される。このことを「価値法則」という。」
マルクス『賃労働と資本』学習ノート
草加耕助 f(^^;) 「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)より
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=76)

ここには、「価値抽象」の理解しかありませんし、交換比率から共通者価値を求めるカウツキー理論の普遍的継承があります。しかし、草加耕助氏の論文でわかるように、ここには、新左翼・宇野経を学んだ人々が、スターリン経済学との雑炊に頭がかき回されていることの証明ではあります。

価値抽象と、事実上の抽象とを分ける榎原さんの理論的抽象批判としての文化知の決定的意義の普遍化がとても大切です。

複雑労働の単純労働への還元は、二つの抽象のどちらに属することでしょうか?
事実上の抽象に属することですか?経済的形態規定に属するのですか?
それとも人間的労働力一般の実現形態から反照される・反省規定を受け取る(回り道を経ての)労働(抽象的人間労働)に属することでしょうか?

複雑労働の単純労働への還元は、社会的必要労働時間の単位となる社会的平均労働力の規定の仕方にかかっている。
それは、社会的実体である人間的労働力一般の支出での個人的労働力の規定であったのだから、共同体での共同主体的な人的労働力の支出とは異なることが前提された規定であり、量的存在としての交換価値から還元される共通者としての社会的実体であったのだから、労働生産物の具体的姿態の全てを捨象(抽象ではない)した意味での、価値実体・人間的労働力一般の支出であったのです。

ところが宇野は、社会的実体を「労働・生産過程」とする理解から、個人的労働力の社会的平均労働力としての単位での支出を(私的労働に他ならない)、すでに、社会的実体であるからと、「労働時間もまた社会的労働として計量されねばならない」(『資本論の復権』P127からの孫引き)としたのですね。社会的平均労働力の規定は、「現存の社会的・標準的な生産条件と労働の熟練及び強度の社会的平均度」からもたらされるも、労働過程が社会的結合をしている共同体ではないのだから、私的労働でしかないのでした。(『復権』に、「宇野の場合、価値の実体を生きた労働に求めたが故に「労働=生産過程」を実体化しこれを社会的実体へと祭り上げ・・・」同P181とある。)

この 宇野流社会的実体の理解は、ローゼンベルグの社会的実体の批判としてあったのではないか?
「交換価値としてはこれらの商品は単に労働生産物であるに過ぎぬ。」(『資本論註解』?P107)
使用価値の量的比率としての交換価値から還元される実体が、「労働生産物」なのですから、生産過程での流動している生きた労働・人間的労働力の支出が、ローゼンベルグにとっては、価値実体なのですが、その先を読んだ宇野にとっては<生産過程が社会的実体>であると主張しているように見えたのだと思うのです。

このような宇野さんの労働過程での人間的労働力の支出の表象が、具体的労働を抽象(捨象や還元ではない)した生きた労働にあるのであれば、社会的必要労働の単位が、共同体的な社会的実体による労働力の支出なのか?資本制的な社会的総労働力の個人的な平均労働力の支出なのか?の相違は、問題にされないのではないかな?価値関係が使用価値の量的側面の関連としか意識されず、質的側面の関連は意識外に追いやられてしまうのですね。(後日の訂正を加えてあります。)

さて、<複雑労働の単純労働への還元は>それぞれの具体的労働を抽象したものとの意見をもつのであれば、価値とは、社会的単位でなく、使用価値の物的属性(表示される労働の二重性は混同されますね)であり、商品関係とは、物と物との関係の超歴史的な究極完成された社会関係となるのですね・・・・・・


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