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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

11:Re: Re価値関係とは概念的存在の表現
田中 02/20 11:14
〈「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。〉
megumiさんもご承知のように、マルクスは価値形態論とならんで、自らの発見あるいは独自性として労働の二重性の把握をあげています。古典派は価値の実体としての労働を把握しながらも、経験論的観点の限界ゆえに、価値実体の抽象性を明確にできなかったのです。社会的必要労働時間の概念をリカードは持っていたにもかかわらず、それを直接的な投下労働時間としてしか把握できなかったのは、「蒸留法」としての理論的抽象すら明確になされていないからでした。複雑労働の単純労働への還元は把握していたにも関わらず。
ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
商品生産社会に固有な労働の社会的性格としての諸労働の抽象的同一性である抽象的人間労働を超歴史的概念として把握するのも、同じ理由からでしょう。そのような理解は、物象としての商品の交換関係としてしか労働の社会的関係が存在しえないことの無理解に原因があると思います。つまり物象関係の背後には本質としての人々の社会的関係が存在すると考えているのです。社会的平均化は交換関係でしかなしえないことが理解されないのも、同様です。社会的平均化を抽象的人間労働への還元として理解するならば、価値形態論における回り道とは物象的関係としてのみ労働の社会的性格が成立するその仕方を解明したものといえるのではないでしょうか。
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。では相違はどこにあるのでしょうか。私が思うにそれは抽象的人間労働の量的規定に具体的有用労働のそれをリンクさせて考えるべきか否か、という点だと思います。社会的必要労働時間あるいは社会的生産性とは、ある一商品において問題となるものであり、他の商品の社会的生産性とは区別されるべき問題です。商品の種類あるいは区別とは、やはり使用価値の相違であると私は思います。
この問題を単なる生理学的支出としての側面から考えてみたのが、前々回の投稿文なのです。複雑労働の単純労働の還元の問題は、具体的有用労働の種別の問題であるのです。異なる具体的有用労働を質的に同一化し、さらに判断として量的比較を成立させるためには、単なる生理学的支出としての質および量への還元が必要なのです。具体的有用労働における消費カロリー単位での同一化と比較、価値実体と有用労働との関連とは、以上のような問題ではないかと、私は考えています。
私が関連にこだわるのは、協同社会における労働時間に基づく生産の計画、財の構成員への分配という場合の労働時間とはどのようなものとして考えるべきか、という問題を意識しているからです。この問題を価値実体としての抽象性をいかに具体性へと回復させるのか、問題の立て方が正当かどうかを含めて、今後詳細に考えてみたいと思います。


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