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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

1:「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘
ebara 10/26 16:26
 「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで
                     田中一弘

 榎原さんの「世界恐慌分析のための原理」において、信用資本主義は、変動相場制への移行および世界単一の資本市場の成立を条件として、成立・発展してきたことが述べられています。さらにその具体的な展開を次のようなものと捉えています。
 「現在の金融市場でのプレーヤーは銀行、証券会社、年金基金、保険会社などの機関投資家、投資ファンド(ヘッジファンドやミューチュアルファンド)であり、彼らが経済に対して大きな影響力を持っている。これらの資本家はみな他人のお金を現実資本に投資するのではなく、金融資産の売買に向けることで、投機資本としている。」
 この投機資本を実体経済あるいは現実資本との関係から考察したものが以下の部分でしょう。
 「貸付可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入(資本家が受け取る利潤や労働者の労賃など)が預金されることで銀行に集中される。・・・・この貸付可能な貨幣資本の蓄積は現実資本の蓄積からは相対的に独立しているし、また貸付可能な貨幣資本の運用については架空資本の売買という投機に向かいやすい。」
 ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。残念ながら、この点について榎原さんは詳しく展開されていません。そこで自分が現在学習しつつある内容を紹介しますので、ご検討ください。
 まず原理的面から。利子生み資本の成立によって、すべての貨幣は資本とみなされるようになり、自己増殖運動を自動的に展開するものとして、人々の意識を支配している。貨幣は貨幣であるがゆえに、投資すれば増えるものだと意識されている。もちろん蓄蔵貨幣と貨幣資本との区別は日常意識でもなされているし、経済状況しだいでは自己増殖がなされない可能性があることも認識されている。しかしながら、生産過程における剰余価値生産が利子の現実的な根拠であることは意識から消失している。そしてその実現の場は、架空資本売買市場が最適である。というのはそこで投資される貨幣資本の出自は、現実の生産過程にさしあたりは投資されない遊休資本やさしあたりは支出されない通貨としての預金だからである。
 実証的な面、あるいは世界経済の歴史的発展との関係の面。この点について、『情況』2008・7月号に掲載されている二つの論文―河宮信郎 「サブプライム問題―その構造的分析の試み」(p.162〜184)、 長谷部孝司 「アメリカ金融システムの変容が意味するもの(下)」p.212〜235)―を紹介したいと思います。ただ(1)は私の仮説です。
 (1)全世界の商品市場としてアメリカは他国から膨大な輸入を行うことにより、資本主義を支えてきた。そのため世界最大の外国為替取引市場が発展した。これが変動相場制の導入およびオンライン化によって、決済の場から投機の場へと変質した。
 (2)70年代以降、欧州や日本との競争に敗れる形で、アメリカの工業は衰退あるいは空洞化していった。その結果、「米経済が金融業に特化し、米金融業が証券業に特化した」(『情況』2008・7月号、p.162)。また、「金融業に特化した米経済では、通常の製造業は『有望な投資先』にならない。結局、金融業が自前で『金融商品』を創出する以外に資金運用の方途がない。」(『情況』2008・7月号、p.165)
 (3)「一九六〇年代後半から機関投資家の資金の運用方法に変化が見られるようになった・・・・。経済成長の鈍化にともなう株価の低迷等を背景に、株式等の長期保有から回転売買を繰り返すようになったのである。」((『情況』200・7月号、p.212)
 (4)「そもそも株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業は、・・・・もはや十分な収益を上げられなくなっていたのである。・・・・これら企業はM&Aなどを利用して事業の再構築に取り組まざるを得ないことになったが、この動きに機関投資家の積極的株主活動が重なったことから、事業再構築による収益性の重視という目標は、具体的にROEの重視など株主の利益を重視する、株主重視経営とか株価至上主義という形に結びついていったのである。」(『情況』2008・7月号、p.214)
 (5)「従来型の産業・企業でM&Aや自社株買いが盛んに行われると、これらを通して同産業・企業内に滞留していた過剰資金が吐き出され、それらの資金は家計、機関投資家を通して最終的に新産業・企業へ供給されることになった。」(『情況』2008・7月号、p.215)
 (6)「株式投資では、IT関連などの新興産業・企業向けの資金供給が増大したと考えられる。これを端的に示すのが、NASDAQ市場の急成長である。」(『情況』2008・7月号、p.218)
 (7)六〇〜七〇年代において、アメリカ「国民のほとんどが、自動車、家電など物財に対する欲求を充足させてしまった」、つまり「福祉国家体制を形成し豊かな社会を実現したことが、耐久消費財形重化学を中心とする産業構造から、ソフト化・サービス化産業を中心とするそれへの転換をもたらすことになり、九〇年代以降には、この転換はIT産業の発展を中心に進むことになったのである。」(『情況』2008・7月号、p.229)
 この点については、日本車の販売増大などによる貿易赤字の増大、あるいは住宅バブルから考えると違うような気がします。欲求が充足されたからではなく、従来型の産業がアメリカでは衰退し、ディズニーあるいはハリウッドとマイクロソフトだけが世界的企業あるいは産業として生き残った、というほうが正確ではないでしょうか。IT産業が現代資本主義において中心となっているという見解について、小松聰『世界経済の構造』第?部第四章で詳細な批判がなされています。IT技術がすべての産業において広範に用いられているということと、その技術を生産している産業が中心的な産業であるということとは区別されるべきでしょう。
 (8)「IT産業の世界では技術変化が大変急速なので、・・・・『選択と集中』によって、自らは得意分野に資金や人材を集中させつつ、それ以外については、優れた技術を開発した他企業をM&Aによって取り込んだり、業務提携によって共同で事業を行ったり、アウトソーシングのネットワークを広げたりすることで、『時間を買う』という戦略を展開せざるを得ないことになる。こうして、IT産業・企業ではM&Aや業務提携は日常茶飯事となる。」(『情況』2008・7月号、p.224〜5)そのための資金調達方法として株価時価総額主義がとられることになった。
 (9)七〇年代以降の「アメリカの金融システムの変容・改革の動き・・・・、これは以下のように意味づけられるのではないだろうか。すなわち、福祉国家体制の形成によって発展した耐久消費財型重化学工業は、一九六〇,七〇年代には成熟化を迎え、以後はソフト化・サービス化産業という新しい生産力を中心とする時代へと移行し始めた。こうした産業構造の転換、すなわち、新生産力の発展に対応して、金融システムも転換を迫られることになった。すなわち、耐久消費財型重化学工業に適合的な金融システムは、ITを中心とするソフト化・サービス化産業の発展に適合的な金融システムへと転換していくことになった。このような産業構造の転換、すなわち新生産力の発展に対応して金融システムが転換していく過程、これこそがこの時期のアメリカの金融システムの変容・改革が意味するものであったのではないだろうか。」(『情況』2008・7月号、p.231)
 ライブドア事件が日本における代表的な事例として理解できます。しかし、信用資本主義はIT産業によって発展したのではなく、長谷部さんも論文の前半で展開されているように、現実資本の行き詰まりから金融経済の構造変化が発生し、その後発生したIT産業へと行き場を失っていた貨幣資本が流入した、というほうが正確ではないでしょうか。そうでなければITバブルの崩壊以降も、信用資本主義が繁栄したことが説明できないのではないでしょうか。
 現在の世界恐慌を考える際に、架空資本と現実資本の関係の問題は、重要な論点をなすのではないかと、私は考えています。榎原さんの論文や大谷さんの考証によるマルクスのテキストを現在学習中ですが、これがなかなか難しい。とりあえずの方針、というか見取り図を書いている段階です。
 信用資本主義とは、現実経済とは表面的には無関係な運動を展開する架空資本の運動として、展開されてきたものでしょう。サブプライムローンなどの証券化商品とは究極の架空資本なのです。利子生み証券としての架空資本の架空性は、何よりもその価格変動に現れます。つまり、それがもたらす配当・利子の変動とは相対的に自立した形で、証券市場の需給関係で決定されるという点にです。榎原さんも次のように述べています。
 「信用資本は架空資本を投機的に取引することで蓄積して行く。それはバブルを形成し、バブルがはじければ金融資産の時価総額は暴落するが、しかしこれは現実資本にとっては直接のかかわりがない。実体経済の動向とは無関係に、バブルとその収縮、これを繰り返すことは投機・信用資本主義の宿命である。」
 しかし、それが「将来の利益に対する請求権」として成立している以上、現実経済において利益が生み出されることがなくなれば、たとえば住宅ローンの返済が滞れば、その価格は暴落する、というような形で、架空性が暴露され、現実経済との関係に引き戻される、このように言えないでしょうか。サブプライム問題は住宅販売の低迷・住宅価格の低下に端を発しています。この場合、住宅自体が金融資産であって、架空資本の一部をなしていたといえるでしょう。とはいえ、商品(資本)としての、使用価値の側面をも持つものとしての住宅の販売実績の低迷という観点から見ると、それは現実経済の一部であったとはいえないでしょうか。このようにいったとしても、その後の金融危機は現実経済の動向とは無関係であるのは確かですが。
 また、信用資本主義から協同社会への移行という革命的観点から見るならば、社会的富の抽象的・物神的形態としての貨幣資本を、どのような共同的あるいは直接に社会的な富として奪回することができるのか、あるいは、そのような貨幣資本の蓄積を使用価値的な観点=人間と自然の物質代謝過程の観点からみるとどのように把握されるのか、そのような問題を考えてみたいと思っています。個人的には過剰資本として現れているものを、自由時間として、享受の時間へと転換としてみたいものだと思いますが。




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