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社会的総労働の配分論としての商品論(10)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(10)
田中 04/27 15:46
協同社会における需要と供給の一致としての社会的労働の計画的配分とは、以上のような観点から達成される、このように大熊さんは結論づけています。個々人が欲求に従い、消費配分予算表を提出しそれによって社会的労働が配分されるというのです。それは「総生産統制の中枢機関」によってなされるというのです。本稿の冒頭で提起した社会的必要性の二重性はこのようにしてはじめて統一的に把握されるのです。そして商品の廃絶とは確かにこのような方法でしかなしえないものでしょう。しかし、果たしてそのような計画化は可能なのか、個人の欲求を出発点とする生産体制は協同社会として成立しうるのか、協同主体という榎原さんの提起とこの計画化の構想は相容れるのか、などさまざまな疑問が浮かんできます。
 個人の欲求を出発点とする、あるいは前提とすることは、環境問題が危機的な状況を迎えている現在、自明の事柄にするわけにはいかないでしょう。欲求の質あるいはあり方が問われなければならないでしょう。例えば車社会の転換は、車に対する欲求の放棄を要請します。その放棄が強制的あるいは道徳的な方法で行われず、個々人の関係性というかたちでの協同主体の生成として、いかに構想・実現しうるかが問われなければなりません。欲求の社会化とは個々人の欲求の単なる総和ではないのです。そしてこのような欲求の転換は、大規模生産を基本とする現在の生産体制の根本的転換の問題を含んでいます。資本家の私的所有を生産者協同組合へと転換するということは、単なる所有権の問題ではないのです。生産のあり方が協同主体への生成と同時に転換しなければならないでしょう。たとえば生存の基本となる食料の生産=農業をどのように確立しうるかが問題となります。車の工場をつぶして耕作地に替える、というようなことです。土壌汚染の問題などがあり、簡単に実現しうることではありませんが、考慮しなければならない問題だと思います。
ソ連の崩壊という歴史的経験のあるわれわれにとって、計画化の中枢機関を国家機構として想定することはできません。社会化を国有化と同一視することが決定的な謬りであり、そこから官僚という新しい支配階級による社会主義的な搾取体制が確立されたからです。では、どのようにして民主的な機関なり、計画化を構想しうるのか、が問題となります。これはさきほど保留した協同社会と「統制的な計劃経済」の関係という問題でもあります。旧社会主義をどのように総括するかが問われているのです。その際、計画化自体が問われる場合が出てくるかもしれません。榎原さんは脱商品化ではなく、脱物象化だと主張されていますが、このような問題を意識されてのものでしょう。商品に代わる人間の社会性の創出は、単に計画化に還元しうるものではない、このように榎原さんは考えていると思いました。この問題を考えるのに、『情況』誌の対談や榎原さんのランシエール論はおおいに参考になります。
また規模の問題として捉えるならば、国家的規模での計画化は現実的ではなく、地域社会の新たな創造のほうが現実的でしょう。また革命のコースの問題として社会革命を先行するならば、それは地域社会から始めるほかはないと思います。スロータウン富田はまさにそのような実践ではないでしょうか。
以上の問題はいずれも社会的主体とはなにか、という問題に帰着します。個々人の自立性を前提として協同性あるいは社会性を考えるか、それとも間主体性として=個々人の関係性として協同主体を考えるか、これが問われています。私は榎原さんに学びつつ協同主体を構想しなければならないと思っていますが、しかし個人の意識へと内面化される点を看過できないとも思います。共同性を自己内反省したものとしての自己意識という問題に引っかかってしまうのです。
 本稿を書き始めたときには、計画化が協同主体の生成によって簡単に位置づけられると考えていました。それによって商品廃絶の目標がさだまり、過渡期としての地域通貨、地域社会の創造を理解できると思っていました。しかしそう単純ではないのですね。ながなが書いてきて結論が疑問の提出とは情けないかぎりです。しかし今後の方向が定められたという意味で、私には有意義でした。それにつき合わさせてしまい、読者の方には申し訳なく思います。







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