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社会的総労働の配分論としての商品論―その一

1:社会的総労働の配分論としての商品論―その一
田中 03/05 13:25
(1)本稿の問題意識
 本稿は、『資本論』商品論を社会的総労働の配分の視点から解釈し、商品生産社会におけるそのあり方を明らかにすることを、第一の課題とします。さらに、物神性論における他の生産諸形態との比較を検討し、協同社会における社会的労働の配分に際して考慮すべき問題点を提示したいと思います。すなわち等量労働の交換を実現しようとする場合、どんな点が問題となるのか、という点です。脱物象化が可能となる条件とは何か、という問題を考える一つの出発点を確認しようとするものです。

(2)商品生産社会における労働の社会的形態および社会的性格
 社会的総労働の配分を考察するためには、まず労働の社会的形態と社会的性格を確認しなければなりません。商品生産社会とは、「互いに独立に営まれる私的諸労働」(新日本新書『資本論』1、p.124)により社会的生産が行われている社会です。すなわち「これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。」(同)のです。

 「生産者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触にはいるから、彼らの私的諸労働の独特な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現われる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関連を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関連は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現われるのである。」(同p.125)

 商品生産社会では、労働の社会的関連は、商品の交換関係という物象的形態としてのみ存在するということが述べられています。したがって労働の社会的形態および社会的性格も物象的形態として存在するのです。
 では「商品を生産する労働に固有な社会的性格」とはなんでしょうか。マルクスはそれを「二重の社会的性格」として捉え、次のように述べています。

 「私的諸労働は、一面では、一定の有用的労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の、諸分肢として実証されなければならない。私的諸労働は、他面では、特殊的な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換されうるものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。互いに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。」(同p.125)

 つまり「二重の社会的性格」とは、第一に「社会的に有用的な性格」(同p.126)であり、それは他人にとっての使用価値という形態で存在します。第二に「種類を異にする労働の同等性」(同上)であり、それは商品の価値という形態で存在します。
 社会的総労働の配分を考察する際には、この「二重の社会的性格」の観点が重要となります。マルクスは価値実体の量的規定として「社会的に必要な労働時間」をあげていますが、以上のような二重性を考慮するならば、社会的な必要性を使用価値の側面からも考察する必要があるのではないでしょうか。価値実体の量的規定は生産あるいは供給サイドに即した規定にすぎません。しかし、社会的総労働の配分が消費あるいは需要の問題をも含むものであるとするならば、この側面からも「社会的に必要な労働時間」という問題を考える必要があるのではないでしょうか。誤解を防ぐためにあわてて一言つけくわえますが、価値量の規定に需要サイドからの「社会的に必要な労働時間」を導入するというのではありません。使用価値と価値との統一と対立と同じ意味で二つの「社会的に必要な労働時間」を規定すべし、という意味です。もっとも需要サイドで必要ないと判断されれば、価値量としては0になる、という規定性はありますが。つまり価値が実現されないということです。この点については後ほど再論します。


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