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労働と分配の分離について

1:労働と分配の分離について
森 真澄 03/03 15:13
●私達の社会の最大の課題は、
○いかにして、すべての個人の人生の活動を生き生きとした
創造的で充実したものにしうるか、と言う事と、
○その為に必要な能力の習得と、
生活と活動に必要な経済物資の調達と、
活動手段、土地、施設などの利用
とが、万人に最大限自由に可能になる事にある。
●別の視点として、
仕事には色々な種類があり、大きく分けると、
基本的労働(パンの為の労働)と、
自由労働(パン以上の為の労働)とあると述べた。
基本的労働=経済物資生産加工流通活動と考える事も出来るし、
基本的労働をさらに、二つに分け、
基本的経済活動=食糧獲得を中心とする生活必需品(衣食住)の確保
自由経済活動=それ以外の経済物資(贅沢品など)の生産加工流通
とする事も出来る。
自由労働は、精神文化活動(医療、教育、研究、芸術文化、立法)
        法政治活動(行政)
        の二つがあるが、
基本経済活動(生活必需品)だけを、基本的労働と考えるならば、
自由経済活動も、自由労働と考える事も場合によって出来るだろう。
そうすると、基本的労働は、本来すべての人間にとって義務である事
がわかるだろう。
●そこには、以前として、基本的労働の免除と言う
問題があり、免除してもらうには、それにふさわしい自由労働を
するかわりに基本的労働を免除してよいと言う、基本的労働者の
皆の合意(コンセンサス)が必要である。
すべての人が、基本的に基本的労働の義務を負っているので、
すべての人が、半農半Xつまり兼業農家(農業国なら)になって、
自由活動の為の自由時間を等しく分かち合う、と言った社会の
ありかたも可能性のひとつとしてあり得るが、現実問題としては、
専業の自由労働が必要になってくるかも知れない。
しかし、期待された自由労働をしなくなると、当然、基本的労働
に復帰しなければならない。
●この様な事情があるので、秩序と健全の為には、すべての
人に誕生と同時に耕地の生涯利用権を贈与し、基本的に
基本労働者から人生をスタートさせるのが、人間の進化を
繰り返す為にも、最も自然で健全であると言っていいだろう。
人間は、自然から遊離すると、不健全になりがちだから
である。
●しかし、自由労働は、全く個人の自由意志を優先すべき
であって、社会のニーズに答える義務は、個人の自由意志
にゆだねるべきだろう。でなければ、個人の生き生きとした
自由意志に基づく活動でなくなってしまう。
ただ、基本的労働の免除(専業の自由労働者になる)だけが、
基本的労働者の承認を必要とするのである。
だから、基本的労働従事者にも、自由労働する時間と自由が
あるべきである。なぜなら、それが全き人生の在り方、
全人格的生活だからである。
●経済活動従事者は、すべての人の経済物資を用立てする
社会的義務を負っている。経済物資を売り付けるのでは、
見返りを求めているのであるから、義務を完全に果たしたとは
言い難い。あとで自由労働者(精神文化活動、法政治活動者)に
支払うのだから、結局同じだと思うかも知れないが、それは違う。
なぜなら、もし生活に必要な経済物資を、彼らに無料提供(贈与)
したならば、彼らは、無料ですべての人に、精神文化サービスと
法政治サービスを提供する事が出来るからである。
それが望ましいあり方である。なぜなら、教育や医療や宗教儀礼
や芸術文化活動などの精神文化サービスや、法政治サービスは、
経済に支配されてしまってはならない純粋な行為の為の行為で
あり、またすべての人の為のものであり、経費がかからない方が
自由かつ実りが大きいと言えるからである。
そうしないが故に、彼らの仕事は、商売化してしまい、経済に
支配される様になったのである。
●昨今、共生社会と言う言葉をさまざまな立場の者が口にする
様になっているが、今日の賃労働制度を主たる分配制度とする
事による家族間貨幣獲得生存競争状態を維持したままの
共生社会などあり得ない。結果だけを社会保障で完璧に再分配
したとしても(そんな事はありえない。なぜなら賃労働制度の維持、
保護そのものが富裕層の維持、保護を示しているのだから)、
人々の生活の場が生存競争の生活であり、社会保障は補助に
すぎないので、富裕層はそのままであり、社会の基本的在り方
や人々の生き方・精神は変わらないからである。
●ここを理解していない人が多いので長くなるが書いておく。
共同体(全員)の成果を共同体(全員)の財布に戻し、そこから、
労働量をうんぬんするのでなく、すべての人にうまく分配する
事のみ配慮して分配するべきなのである。
分配の時は、分配の事のみ考えるべきである。
労働量のみを見て、見るべき人々の必要と幸福すなわち
分配の目的そのものにろくに目をやらないで分配するから
決してまともな分配など出来る訳がないのだ。
努力した者がそれ相応に報われる社会の実現と言う標語
がもっともらしく聞こえるのは、貨幣で労働を売り、労働した後、
支配者への労働提供量相応の生きる糧(貨幣)を得る今の
自分になれてしまったからである。
本当は、労働の後に見返りに労働した者に生きる糧を分配する
のではなく、分配する必要があるから全員に分配するべきな
のである。私達は自給自足社会に生きているのではないから
である。
人に生きる糧を与える事が出来るのは神か支配者
だけである。神の代理人になってはいけない。

●6人が共同で魚とりをした場合、10匹とれた人から、
8匹、7匹、6匹、4匹、そして
1匹しかとれなかった人までいたとしよう。
全部で36匹だ。
共同体はどの様に分配すべきなのだろうか?
10匹とった人は、10匹もらい、
1匹しかとらなかった人は1匹もらう。
これが今の社会の考え方である。
共同社会なのに、分配の時はただ自給自足
しているにすぎない。
36匹全部を人数で割って、
皆が同じく6匹ずつ分かち合う
共同体もあるだろう。
私達が望んでいる社会は
どちらの社会だろうか?
では、今度は、同じ例で、
住民が他に12人居て、
全部で18人の共同体
だったとしよう。
うち3人は、彼らの家族
ではない。
また、家族の人数も
人によって多い少ないがあり違う。
それでも、前者は、
前回と同じ分配をしたとしたら、
やはり今の社会の考え方と同じだ。
後者はどうするだろうか。
きっと、2匹ずつ、村人全員に
分配する事だろう。
では、その中にずる休みした
怠け者がいたとしたらどう
するだろうか?
常習犯でなくても、
罰を与えて言う事を利かせるのだろうか?
また、十分な栄養を要する妊婦
がいたらどうするだろうか?

望む社会は人によって違うかも知れないが、
自分で一度よくよく考えてみて欲しい。

●少なくとも、私達が望んでいる社会は、
欠乏から人生をスタートしよーいドンで賃金労働させられ、
支配者への労働量に応じて生きる糧を分配してもらう社会
ではない。
すでに生きる糧を与えられた所から人生をスタートし、すべて
の人に、労働する前に、労働とは関係なく生きる糧を分配する
社会、そのお返しに人々は行為そのものの為に行為して
社会に貢献するのである。
見返りは個人的にあるのでなく、共同体全体で分かち合う
のである。


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