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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

1:小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、
megumi 02/12 02:11
今日も、多くの人々の観念するマルクス経済学の表象する労働価値説の手本は、以下のカウツキーのものであると思うのです。

「一つの商品が、他の商品と交換される比例は、即ち前者の交換価値と呼ばれる所のものである。この比例は、勿論時と処によって異なる。けれども一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その大きさは常に一定している。今仮に、20ヤールの木綿が一着の外套と交換され、同時にまたそれが40斤の珈琲と交換されるとする。この場合若し、外套と珈琲とを交換する必要が起こるとすれば、それは必ず一着に対する40斤の割合で交換されるであろう。そこで外套の交換価値は、それを珈琲と交換する時と、木綿と交換するときとでは、全く異なった外見を呈することになる。
 然しながら、一商品の交換価値は、その外見上如何に種々異なっていても、これを一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その根底には、同一の内容が横たわっている。・・・略・・・之と同じように、一商品の交換価値は一見如何に種々雑多に見えても、その根底には必ず一定の内容が存在している。我々はこの内容を商品の価値と呼ぶ。」(『資本論解説』高畠訳而立社刊P22~23)

ここでは交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。

しかしマルクスは、4版で次のように書き加えていました。

「「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。」(資本論)

だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。
しかし、カウツキーは、商品の使用価値の量的(自然的・物的)関係の背後に、価値の規定をしたのだから、商品形態(価値形態・自然的形態)の二要因としての二者闘争的性格をもつ価値・使用価値とは把握できなかったのです。使用価値が価値の現象形態になる「価値形態の秘密」の理解が無ければ、この「文化知」による、労働生産物の物象化=商品自身の交換価値・使用価値の判断の理解が出来ない。労働の二者闘争的性格に基ずく使用価値・価値の表裏一体の二重性格への理解が無ければ、等価物上着の役立ちは、使用価値の物的属性としてのみ人々の眼に映るのでした。

だからこそ、小澤勝則氏は、数理経済学をこう批判したのですね。

>商品の価値に使用価値、その素材的要因を結びつけようとする試みは、逆に、商品が素材的に規定された具体的な有用物であることを否定するのである。

商品の二重の姿態を抽象化しているものだから、使用価値の素材的規定性を付け加えても、抽象性は消えず具体化されない・・・と言う批判なのですね。

マルクスは、「労働の価格」あるいは「労働の価値」を「想像的表現」と批判したのですが、「商品搾取定理」も、「資本の価値増殖を生産要素の素材的要因に関連させて示そうとする」「想像的表現」というのですね。賛成します。すばらしい批判です。


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