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megumiさんの回答

1:megumiさんの回答
田中 10/18 12:12
労働過程と価値増殖過程という資本制的生産の「経済的形態規定」についてですが、労働の本質的規定として私が述べているのは、「その単純な形態に還元され」た労働過程です。マルクスは『資本論』労働過程論の冒頭で次のように述べています。「使用価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行われることによっては、その一般的な本性を変えはしない。それゆえ、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない。」労働とはそもそも何か、という問いは、このような考察を意味していると思います。
このように把握される労働過程は現実の労働過程ではなく、思考抽象の産物です。マルクスはこのことを「さしあたり」という語で指摘しているのでしょう。megumiさんが引用している文章のなかで「形態規定のこのような消滅が労働過程の内部においてさえも外観に過ぎない」といわれているのは、現実の労働過程がそれ自体社会的・歴史的に規定されているということと理解できます。大工業という機械化された労働過程は資本制においてはじめて成立した、といわれる場合が、労働過程の社会的形態規定でしょう。大工業自体は―その存続が現在では生態系の破壊として根絶されるべきものであるにせよ―非資本制的な社会においてもありうるものです。資本制においては死んだ労働=資本による生きた労働=労働者の支配として、機械に労働者が支配されることとして存在します。それは価値増殖過程としての直接的生産過程によって規定されているのですが、それ自体は労働過程の規定であると、私は理解しています。
つまり労働過程自体に抽象的一般的規定と社会的形態規定という二つの側面があるのではないでしょうか。
私のコメントは商品生産における労働という側面に焦点をあてたがために、価値増殖過程の観点は確かに欠落しています。掲示板の補足のなかで商品生産社会=資本制社会といった以上、この欠落は「流通過程の仮象」に囚われた議論として理解されてもしかたないかもしれません。私の意図としては、できるだけ森さんの土俵にのったうえでの議論を展開したかった、ということです。マルクス的な観点はこっそり密輸入したにとどまるという風にいえるかもしれません。他者の意見を検討する場合、できるだけ内在的な方法をとることが必要でしょう。しかし自らの価値基準というものは拭いがたいものとしてあるがために密輸入せざるをえないのです。
思想史や哲学的観点からマルクスに接近する者の弊害は、やたら「本質的」規定を振りかざし、よって「経済的形態規定」の観点を軽視するところにあるのかもしれません。megumiさんの指摘はいつもそのことを反省させられます。それはひいては実践的問題意識の欠落につながりかねないものとして、常に意識しなければならないのでしょう。




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