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暫定的結論

1:暫定的結論
田中 08/17 16:15
 「把握」と「了解」の違いについて、恵さんの投稿と「モモ」の本を読むことによっておぼろげながら整理がつきましたので、報告します。
 超感性的な抽象的人間労働は思考にとっては直接認識できるものではない。認識とは感性をその土台としているからです。だから上着に体化している抽象的人間労働が何時間であるかは、把握できない。それは上着の量として把握できるだけである。そして価値関係の内部で抽象的人間労働への還元が具体的にどのように行われるかは把握できない。ただそれが反照(まわり道)による形態規定であることが了解される。このような了解が思考に可能なのは、抽象的人間労働が価値という超感性的な現象形態をとり、なおかつ価値が価値形態あるいは価値姿態という感性的な現象形態をとるからである。
マルクスはこの感性的な現象形態を出発点としながらも、弁証法を利用することで、超感性的な現象形態を了解できた。それにたいしてブルジョア経済学はこの感性的な現象形態のみを問題としているのだが、逆にいうと感性的な現象形態が存在するがゆえにブルジョア経済学が成立するともいえる。もちろんブルジョア経済学でも労働価値論がありますから、価値の背後に潜む実体としての労働という認識はあります。ただ労働の二重性は把握できず、価値実体としての労働は感性的な具体的有用労働とは区別できていない、という意味で感性的な現象形態のみを問題にしているといえるのではないでしょうか。
 以前の投稿で実践的唯物論に言及しましたが、以上のような認識に立つと唯物論も再考しなければならないようです。超感性的な実体とは物質性を持たない実在ですから。榎原さんも「暫定的な結論としては、唯物論も観念論もともに思考の一契機であり、具体的な思考過程を離れたところに何か原理的なものとしてあるというわけではないと考えています。」(「石井さんの異論について」)と述べています。私には少なからずショックですが、今後の課題としたいです


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