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「了解」と「把握」の違いとは?

1:「了解」と「把握」の違いとは?
田中 08/05 17:51
先の投稿で一から勉強しなおしてから問題提起すると書きましたが、やはり途中でも疑問が生じます。そのままにしておいては自分がなかなか前に進めないので、榎原さんや恵さん、あるいは他の読者の方に教えを請うしだいです。 
 「根源的他者と価値形態論」のなかで、榎原さんは次のように書いています。「思考の論理で把握しきることの出来ない事態については、それが別種の仕方で抽象し判断している概念的存在であることを了解することが唯一の途である。他者の論理を思考が展開することは不可能だが、他者がどのように抽象し、判断しているかを知ることは可能である。」分析的抽象と事態抽象は他者であり、その限りでは事態抽象は思考の外部にある、と言えると思います。しかし、榎原さんが提起する文化知という思考にとってそれは他者なのでしょうか。価値形態論において商品という「他者がどのように抽象し、判断しているか」が展開されているのは、マルクスの思考が事態抽象の論理を展開したとは言えないのでしょうか。「了解」と「把握」はどのように違うのか、私には判然としません。従来の哲学的思惟における存在と認識の一致としての真理論を批判するための戦略なのでしょうか。社会を意識の対象とすることによって、逆に意識のなかの社会を現実の社会として措定してしまう哲学を批判するための戦略なのでしょうか。しつこいようですみませんが、榎原さんのコメントをお願いします


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