。ヲ office-ebara
[資本の生産過程は、生産過程そのものとして現れ]

1:[資本の生産過程は、生産過程そのものとして現れ]
megumi 11/17 23:19
この前の続きです。同じ題材を批判した、次の二つのマルクスの草稿を対比願います。
「原材料及び労働用具として労働によって消費されるのは資本家ではない。また消費するのも資本家ではなくて、労働者である。
そこで資本の生産過程は、資本の生産過程として現れずに、生産過程そのものとして現れ、また労働と区別された形では、資本は、ただ原材料と労働用具という素材的規定性でだけ現れる。」
(『経済学批判要綱』?P223高木訳大月刊)
「たとえば、ラムジは、原料と労働手段とが資本をなすものだという。・・・この場合に考察されるのは、どんな特殊的な経済的規定性のうちにも置かれていない、労働過程の諸要素である。(形態規定のこのような消滅が労働過程の内部においてさえも外観に過ぎないことは、後に明らかとなるだろう。)労働過程(資本の生産過程)は、その単純な形態に還元されれば、資本の生産過程としてではなくて、生産過程そのものとして現れ、また労働と区別された資本は、この場合には、原料及び労働用具という素材的規定性において現れるに過ぎない」(『資本論草稿集』4P237)
「(3)資本は、労働手段、労働材料、総じて新たな生産物を形成するための生産物である」(同上P241)この見解を題材にマルクスはこう批判する――
「生産物に目を奪われて次のことを忘れるならば、すなわち、労働過程が同時に価値増殖過程であり、したがってその結果は、使用価値(生産物)であるばかりでなく、同時に交換価値であり、使用価値と交換価値との統一、つまり商品である、ということを忘れるならば、資本は単なる生産物に転化してしまったのだ、そしてそれが売られること、商品となることによって、やっと再び資本となるのだ、というばかげた観念が生じうる。」(同上P241)
『要綱』から『草稿集』への進展は明らかです。しかし、『要綱』の先ほどの記述の前に述べられた次の記述に注目願います。
「もし資本を、それが本来的に労働とは区別されて現れる面から考察すれば、資本は過程のなかで単に受動的な定在、単に対照的な定在に過ぎず、そこでは資本を資本たらしめている形態規定――したがって、対自的に存在している社会的関係――は完全に消滅している。」(『要綱』?P221〜222)
『草稿集』で、<経済的形態規定>の点から書き直したのではなく、『要綱』の二つの過程論をさらに成長させることになった、それこそが彼の一貫した主張の源泉だったのですね。


1-

BluesBB ©Sting_Band