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社会的総労働の配分論としての商品論(9)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(9)
田中 04/27 14:19
前回の投稿では協同社会における消費手段の分配尺度しての労働時間について考察しました。今回は社会的総労働の配分問題―本稿の主題を考えてみます。
「労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求にたいする労働機能の正しい割合を規制する。」(『資本論』1、p.133〜4)
マルクスはこのように端的に述べているだけで、その具体的内容には触れていません。「ゴーダ綱領批判」でも、生産物の分配に関しては前回見たように詳しく展開していますが、総労働の配分問題には触れていません。したがってこの問題についてはマルクスに頼ることなく自分なりの展開をしなければなりません。
以前の投稿(7)でみたように、社会的総労働の計画的配分が可能となるためには、(1)労働力の質と平均的必要労働時間、(2)さまざまな生産物に対する需要量としてあらわれる欲求の種類と量が、生産に先立って明らかであることが必要です。(1)は生産手段の共同所有によって可能となることを前回述べました。今回は(2)はどのようにして可能かを考えてみたいと思います。その材料として、大熊信行著『マルクスのロビンソン物語』(論創社、これは復刻版で原著は1929年同文館)をとりあげます。
大熊さんは、「クーゲルマンへの手紙」で述べられている社会的総労働の配分が「自然法則」であるというマルクスの叙述をそのものとして受け取り、「経済現象の全体性そのものに関する理論は、その最も基本的な形態において、孤立人の生産秩序の中から導き出すことが必ず可能でなければならず、マルクスのロビンソンこそは、その可能を立証するものなのである。」(p.33)とします。そして「自然法則」としての配分法則とは、「あらゆる歴史的生産形態の内部に一応の安定的平均性および全体性を附与するものであり、したがつてこれを排除して経済学の脊柱を他に求めることは不可能だからである。」(p.38)さらに、「かかる法則こそ、すべての歴史的時代を通じて人類生活行動の根元をなす欲望のなかに、その一方的基礎をおくものであり、人間の肉体的組織乃至生理的性質が根本から変化せぬかぎり、この基礎は恒久的であらう。」(p.42)つまり、「この法則はその本来の性質において非発展的、非歴史的であり、一つの社会的生産形態の理論的理解に一応安定性と全体性を賦与するところの静学的な法則である。」(p.43)と述べています。大熊さんはこの配分法則の解明を課題とし、それを労働価値学説と限界効用理論との総合という方向で研究しています。配分法則が自立的な法則として成立しうるものであるならば、このような試みは成果を挙げうるでしょう。しかし社会的総労働の配分とは歴史的な生産様式と生産関係に規定されている以上、「非歴史的」な法則の探求は無意味ではないでしょうか。この解釈を念頭において、私はマルクスがいう「自然法則」を字義通りに受け取ることは誤りであることを指摘したのです。
そのような欠点があるにも関わらずここで取り上げるのは、計画的配分の問題をかなり丁寧に追及しており、うなずける点も多々あるからです。まず大熊さんの問題提起を見てみましょう。
「第一、いかにして個人的な欲望は社会的な欲望にまで構成されるか。第二、社会的欲望はいかにして社会の総労働を配分するか。第三、社会的労働はいかにして構成され、その総量はいかにして決定されるか。―これらの問題は内面的には相関性を有し、部分を単独に切りはなして理解することのできない或る全体、すなはち一定の生産関係の各部面である。」(p.48)
 このように大熊さんは問題を3点あげています。特に第二の問題において、配分の主体が社会的欲望とされている点に注目していただきたいのです。資本制においては生産の動機は剰余価値であり、使用価値はその単なる担い手としてみなされるにすぎません。しかし剰余価値の実現は使用価値の実現を前提としていて、資本制においても生産はやはり社会的欲望の充足過程であるのです。これは一つの転倒性あるいは矛盾であり、恐慌において現実的なものとして姿をあらわすものです。また社会的欲望とは個人的な欲望を出発点とするものであり、個人を離れた社会性はありえないことも示されています。「各個人の欲望こそ或る方法を通して社会的労働を配分しつつあるのであり、その方法とはすなはち彼の消費者としての『自由』でなければならぬであらう。」(p.52)では協同社会においてこの配分はいかにして行われるのか、この点に関する大熊さんの叙述を見てみます。
(1)「マルクスの『自由人の団体』における社会的生産とは「統制的な計劃経済」である。そこでは「総労働の生産総部門への配分は、直接的、直線的に、社会の総欲望によつて指導されなければならぬであらう。しかるに欲望は無辺際であり、労働力は限定された分量であるとすれば、限りある労働力をもつて相対的に最も満足なる結果を購ひうるやうな比例において、これを各部門に配分し、それぞれの部門にたいする欲望を、一々或る限度において、切り棄てることが必要でなければならぬであらう。」(p.51〜52)
(2)「ここに想定されてゐる社会においては、彼はおそらく次ぎの経済期間における彼自身の分配上の予想の上に立ち、その予算的な消費配分表を、総生産統制の中枢機関に提出することが必要であらう。社会成員のすべては、かくのごとくにしておのおのその消費配分予算表を右の機関に提出し、この配分表の総計はすなはち次期の社会的生産における総労働配分表を形成するに至であらう。すなはち総労働時間の社会的配分は、各個人の消費配分の総和として形成され、生産配分は消費配分から直線的に『すき透るやうに単純』に指導されるであらう。」(p.53)
 マルクスの想定する協同社会が「統制的な計劃経済」かどうかは、大いに議論の余地があるでしょう。しかし、ここではとりあえずこの問題はおいておきます。大熊さんの念頭にあるのは当時のソ連であるだろうという点を指摘しておくにとどめます。
さて、(1)と(2)は欲望の扱いにおいて異なる見解を示しています。(1)においては社会的労働の限界によって切り捨てられる欲望が存在することを述べています。(2)では欲望がすべて充足されるように社会的労働が配分されるとされています。この相違は社会的生産力の程度によって決定されるものなのか、それとも計画化のあり方―たとえば政治的な合意形成のあり方―に基づくものか、考えなければなりません。大熊さんはこの相違について触れていませんが、限界効用学説を利用しての配分法則の探求においては(1)の視点にたっているようです(前掲書「配分原理」)。しかし、協同社会論では(2)の立場にたって次のような結論を引き出しています。
(3)「そもそも社会的生産配分は、総労働時間の決定を前提する。・・配分総量たる社会的総労働なるものは、社会の各人が取得せんと欲する(すなはち分配に与からんと欲する)分配分の総和でなければならぬであらう。しかるに各人が取得せんと欲する分配分はすでにその中に彼の完全なる消費配分を予想するものであるから、社会的総労働の決定は、その中にすでに社会的に完全なる消費配分を予想してゐるのである。ゆゑに社会的総労働の決定とその各部門下の社会的配分量の決定とは同時相関的であるといふことが判明するであらう。・・・かくして社会的配分の理解のなかに、社会的分配の理解を含み、個人的分配分の理解のなかに個人的配分の理解を含み、個人的配分の理解を通して再び最初の社会的配分の理解に回帰する。配分と分配との理論的関聯性は以上によつて判明したと思ふ。」(p.57)


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