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労働過程と価値増殖過程

1:労働過程と価値増殖過程
megumi 11/13 00:40
榎原さん次のローゼンベルグの見解をみつけました。
「すなわち、生産手段は、あらゆる労働過程の要素として観察されている。この労働過程の内部において、それは、生産の質量的要因として人的要因たる労働力に対立しているのである。」(『資本論註解』?P273第七書房)
 この見解は国民経済学にありふれたものであって、マルクスは、資本論五章註9で、「未開人の石のうちに発見するのである――資本の起源を」とトレンズ大佐批判として述べていました。
 何のことか???と、腑に落ちないと思います。この内容を、マルクスは二つの著書で次のように述べていました。
「ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値について、この使用価値そのものがすでに、自然素材と労働との一つの結合である、という事情が堅持されるかぎりでは、・・・」(『資本論草稿集』4P93)
「労働過程では・・生産手段の独立な・・それ自身の頭を持っている存在、労働からのその分離は、今では実際に廃棄されている。」(『直接的生産過程の諸結果』国民文庫P59)
 ローゼンベルグとは違って、マルクスは労働・労働対象・手段の三要素は労働過程で結合しているが、価値増殖過程では労働とそれらは分離していると述べていたのです。
さらに、資本論3巻48章ではこう述べています。
「だから、労働が賃労働と一致すれば、労働諸条件がいまや労働と対立すべき規定された社会形態も、労働諸条件の質量的定在と一致する。その場合には労働諸条件は、労働諸条件として資本であり・・・」
(「世界の大思想」21・長谷部訳P307)
「三位一体的範式」でのこの叙述は明らかにトレンズ大佐の「資本の起源」の思考を批判しています。
以上のことから理解できることは、スターリン経済学批判を、資本と労働との交換の二つの過程から批判するのみではなく、労働過程と価値増殖過程の対比と統一において批判すべきということだと思います。マルクスは、「賃労働」を「経済的形態」と位置付け、「経済的形態規定」と言う観点から「経済学批判要綱を」書き直した「経済学批判」を著したと思うのです。


2:Re: 労働過程
megumi 01/08 14:55
<ローゼンベルグとは違って、マルクスは労働・労働対象・手段の三要素は労働過程で結合している>

草稿で、その事をこう述べていました。
「現実的労働が用具を取得する(わが物とする)のは自らの手段としてであり、材料を取得するのは自らの活動の材料としてである。現実的労働は、これらの対象を、生気を与えられた肉体として、労働そのものの諸器官として取得する過程である。ここでは材料は、労働の非有機的な自然として、労働手段は取得する活動そのものの器官として現れる。」(『資本論草稿集』4P90)

「現実的労働は、これらの対象を、生気を与えられた肉体として、労働そのものの諸器官として取得する過程」――何と魅力ある表現ですね。

しかし、過程の結果としての生産物・使用価値では、「過程は生産物においては消失」するのですね。
「過程は生産物においては消失する。過程の生産物は、使用価値であり形態変化によって人間の欲求に適合させられた自然素材である。労働はその対象と結合した。労働は対象化されており、対象は加工されている。」(『資本論』五章)

そこで、ブルジョアの眼から見ればこうなったのです。
「彼(資本家)の立場からは、労働過程は彼が買った商品である労働力の消費にすぎないが、しかし彼はこの労働力に生産諸手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができる。」(同上)

「生産的消費」としか、人々には見えないものですから、労働過程を次のように表すマルクス経済学者が現れるのです。

「ここでは労働過程は、資本家が購買した物(労働力)と物(生産手段)との間の一過程であり、この過程の生産物もすべて資本家に属するのであって・・・」
(『商品の価値と価格』P96大石ゆうじ著創風社刊)

物象の人格化によって、物象たる資本・労働力が 物として現れているのですね。
商品・貨幣・資本・・・が、物として現れていることの批判の仕方をわたし達は学ばなければならないと思うのです。


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