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社会的総労働の配分論としての商品論(6)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(6)
田中 03/23 16:15
(6)交換過程における価値実現と使用価値実現の矛盾
商品生産者にとって、自らが生産し所有する商品は、「なんらの直接的使用価値をもたない」(『資本論』1、p.146)ものです。それは「他人にとっての使用価値」(同)であり、その生産者にとっては、「直接的には、ただ交換価値の担い手であり、それゆえ交換手段であるという使用価値をもっているだけ」(同)にすぎません。
「すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値である。したがって、これらの商品は、全面的に持ち手を変換しなければならない。ところが、この持ち手の変換が諸商品の交換なのであって、またそれらの交換が諸商品を価値として互いに関連させ、諸商品を価値として実現する。それゆえ、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない。」(同)
ここに商品生産社会における自己と他者との分裂あるいは対立が読み取れるのではないでしょうか。「他人にとっての使用価値」が自分にとっては「交換手段」でしかないということは、他人の欲求を自己の欲求を充足するための手段として利用することを意味するからです。他者を自らの手段に貶めているといえるでしょう。商品そのものに人間の共同性を破壊する契機が潜んでいるのです。労働(力)の商品化だけではなく、商品生産そのものに生存競争の根源が存在するといえるのではないでしょうか。本論からは少し脱線した議論ですが、森さんとmegumiさんの論争を読みながら、こんなことを考えさせられたので、書いておきました。
「他面では、諸商品は、みずからを価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない。というのは、諸商品に支出された人間的労働が、それとして認められるのは、この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるがどうか、それゆえその生産物が他人の欲求を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることである。〈それゆえ、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない。〉」(同、p.147)
このような価値実現と使用価値実現との相互前提性という矛盾から、商品生産者の協同行為としての貨幣=一般的等価物が生成します。貨幣の生成は交換の発展に伴う歴史的事実であると同時に、商品生産者が自らの商品に日々価格をつける、つまり貨幣と交換関係を取り結ぶことによって、再生産される事態でもあるのです。それは商品の本性に意志を支配された商品所有者の本能的=無意識的な協同行為なのです。この点については榎原さんが幾多の論文で明らかにされたことです。
しかし単に価格をつけることによって、自らの直接的な形態である使用価値とは区別された価値形態を獲得するだけでは、まだ矛盾の最終的な解決にはなりません。それは観念的な価値形態にすぎないからです。
「価格は商品の単に観念的な価値姿態である。だから、それと同時に価格が表現しているのは、商品がまだ実在的な価値姿態を持っていないということ、または、商品の現物形態は商品の一般的な等価形態ではないということである。商品の観念的な価値姿態は、さらに価格、すなわち、ただ想像されただけの、または観念的な金姿態である。だから、価格が表現しているのは、他の諸商品にたいして交換価値または一般的等価物の働きをするためには、商品は、その自然の肉体を捨て去って、ただ想像された金から現実の金に転化しなければならない。」(『資本論』初版、国民文庫、P.125) 
貨幣と現実に交換されることによって、ある商品は価値として自らを最終的に実現しうるのです。貨幣と現実に交換されるということは、同時にその商品が貨幣所有者という「他人にとっての使用価値」であることの実現でもあります。現実の交換の成立においてはじめて先の矛盾は解決されるのです。
交換過程における矛盾を社会的総労働の配分という観点からみるならば、次のようになります。商品の価値実体である抽象的人間労働は、その商品の生産に社会的に必要とされる時間によって、量的な規定を受けるものでした。ここではさらに「この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られる」、すなわち社会的な有用性が、社会的労働たる抽象的人間労働として私的諸労働が認められる(還元される、と言い換えることが可能でしょうか?)条件として登場しているのです。こちらのほうがより強い必要性でしょう。というのも社会的有用性がなければ、社会的同等性は認められず、社会的総労働の一分肢たる資格をその私的労働は失うからです。マルクスはこの問題について『資本論』第3巻市場価値論の章で検討しています。
「商品が使用価値をもっているということは、ただその商品がなんらかの社会的欲望をみたすということを意味しているだけである。われわれがただ個々の商品だけを問題にしているあいだは、われわれは、この特定の商品―価格のうちにはすでにその量が含まれているものとして―にたいする欲望があるということを想定することができたのであって、みたされるべき欲望の量にはそれ以上に立ち入らないでよかった。ところが、一方の側に一つの生産部門全体の生産物が立ち、他方の側には社会的欲望が立つことになると、このみたされるべき欲望の量が本質的な契機になる。いまでは、この社会的欲望の程度すなわちその量を考察することが必要になる。」(『資本論』国民文庫版6、p.306)
マルクスの関心は価値と価格との関係に主として向けられています。つまり需要と供給との関係による価格の変動が価値との偏差を発生させること、しかし偏差した価格はそれ自体価値を前提としていることを中心的に取り扱っているのです。そして価値と価格の一致を次のように社会的総労働の配分の観点から捉えなおしているのです。
「ある商品がその市場価値どおりに売られるためには、すなわちそれに含まれている社会的必要労働に比例して売られるためには、この商品種類の総量に振り向けられる社会的労働の総量が、この商品にたいする社会的欲望すなわち支払い能力ある社会的欲望の量に対応していなければならない。競争、需要供給関係の変動に対応する市場価格の変動は、それぞれの商品種類に振り向けられる労働の総量を絶えずこの限度に引きもどそうとするのである。」(『資本論』国民文庫版6、p.319)
第1巻では価値法則という「規律が、盲目的に作用する無規律性の平均法則としてのみ自己を貫徹しうる」(『資本論』1、p.174)といわれているのは、具体的にはこのような需要と供給の関係を一つの契機とした運動なのです。すなわち価値法則とは、生産者たちの背後で行われる「一つの社会的過程」としての社会的総労働の配分過程であることが、ここで述べられているのです。その盲目性は究極的には次のように表現されています。
「一方の、ある社会的物品に振り向けられる社会的労働の総量、すなわち社会がその総労働力のうちからこの物品に振り向ける可除部分、つまりこの物品の生産が総生産のなかで占める範囲と、他方の、社会がこの一定の物品によってみたされる欲望の充足を必要とする範囲とのあいだには、少しも必然的な関連はないのであって、ただ偶然的な関連があるだけである。・・・(ただ生産が社会の現実の予定的統制のもとにある場合にだけ、社会は、一定の物品の生産に振り向けられる社会的労働時間の範囲とこの物品によってみたされるべき社会的欲望の範囲とのあいだの関連をつくりだすのである。)」(『資本論』国民文庫版6、p.310)
では、協同社会においてそれはどのように実現されるというのでしょうか。それを考える準備として物神性論におけるロビンソン物語を検討してみましょう。



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