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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

1:小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、
megumi 02/12 02:11
今日も、多くの人々の観念するマルクス経済学の表象する労働価値説の手本は、以下のカウツキーのものであると思うのです。

「一つの商品が、他の商品と交換される比例は、即ち前者の交換価値と呼ばれる所のものである。この比例は、勿論時と処によって異なる。けれども一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その大きさは常に一定している。今仮に、20ヤールの木綿が一着の外套と交換され、同時にまたそれが40斤の珈琲と交換されるとする。この場合若し、外套と珈琲とを交換する必要が起こるとすれば、それは必ず一着に対する40斤の割合で交換されるであろう。そこで外套の交換価値は、それを珈琲と交換する時と、木綿と交換するときとでは、全く異なった外見を呈することになる。
 然しながら、一商品の交換価値は、その外見上如何に種々異なっていても、これを一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その根底には、同一の内容が横たわっている。・・・略・・・之と同じように、一商品の交換価値は一見如何に種々雑多に見えても、その根底には必ず一定の内容が存在している。我々はこの内容を商品の価値と呼ぶ。」(『資本論解説』高畠訳而立社刊P22~23)

ここでは交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。

しかしマルクスは、4版で次のように書き加えていました。

「「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。」(資本論)

だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。
しかし、カウツキーは、商品の使用価値の量的(自然的・物的)関係の背後に、価値の規定をしたのだから、商品形態(価値形態・自然的形態)の二要因としての二者闘争的性格をもつ価値・使用価値とは把握できなかったのです。使用価値が価値の現象形態になる「価値形態の秘密」の理解が無ければ、この「文化知」による、労働生産物の物象化=商品自身の交換価値・使用価値の判断の理解が出来ない。労働の二者闘争的性格に基ずく使用価値・価値の表裏一体の二重性格への理解が無ければ、等価物上着の役立ちは、使用価値の物的属性としてのみ人々の眼に映るのでした。

だからこそ、小澤勝則氏は、数理経済学をこう批判したのですね。

>商品の価値に使用価値、その素材的要因を結びつけようとする試みは、逆に、商品が素材的に規定された具体的な有用物であることを否定するのである。

商品の二重の姿態を抽象化しているものだから、使用価値の素材的規定性を付け加えても、抽象性は消えず具体化されない・・・と言う批判なのですね。

マルクスは、「労働の価格」あるいは「労働の価値」を「想像的表現」と批判したのですが、「商品搾取定理」も、「資本の価値増殖を生産要素の素材的要因に関連させて示そうとする」「想像的表現」というのですね。賛成します。すばらしい批判です。


8:Re: 「ペテロにとっては・・そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」
megumi 02/17 11:34
田中さん、すみませんが次のことにおこたえ願います。
『価値形態 物象化 物神性』の、三章「回り道」とは何か?の中で、榎原さんはこう述べています。

資本論4版のいわゆる事実上の抽象を解説していう。

「リンネルが上着に等価物という形態規定をを与えることそれ自体が、リンネルの価値表現なのだが、このことはリンネルが価値物としての上着を自分に等置することでなされ、そしてこの関係のなかで、リンネルは上着を自分をつくる労働と上着をつくる労働に共通な抽象的人間労働に還元して上着を抽象的人間労働の単なる実現形態とするが、そのことが同時にリンネルの上着による価値表現となっているのである。」(同書P110)

あるいは、こうにも述べている。

「このように見てくると、いわゆる廻り道は、・・・価値表現のメカニズムとしては述べられてはいないことが明らかとなる。それは文字通り、「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズムにほかならない。(同書P113)

久留間さんは、価値存在の表現を、「価値表現のメカニズム」と理解することで、具体的労働の「事実上の抽象」を、理論的抽象と見誤ったことで、宇野の、リンネル価値の上着への等値の錯誤批判としての「回り道」の、正しい問題意識に関わらず、ここでのマルクスの提案を受け止めきれなかったのだと、私は思うのです。

註17aでの、マルクスのフランクリンの諸労働の還元を批判しているところなぞ、田中さんに是非ともご検討願いたいところです。

「(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。」(四版原P65)

「最後」の「価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」・・・
は、抽象的人間労働であることは論を待たないですよね。その前の「別の労働」とは何でしょう。「人間労働一般」あるいは、「人間的労働力一般の支出」のことであり、そして、はじめのある労働とは、具体的姿態の労働でしたね。
つまり、ここには<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>など無かったのです。

反省規定は、見出せますよね。左辺の具体的有用労働に対しての、右辺の「人間的労働力一般の支出」としての等値は、価値関係を形成するものでした。その結果としての最後の労働の、抽象的人間労働――という判断なのです。「抽象と判断」という価値関係のもたらす概念的作用が描かれていたのです。

榎原さんの<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>という理解は、価値関係のもたらす概念的作用――への理解を鈍らせるものではないか?・・・とふと思った次第です。

「註18」はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。」(同上原P67)



9:Re: 「ペテロにとっては・・そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」
田中 02/17 15:45
〈「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」〉

〈「最後」の「価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」・・・は、抽象的人間労働であることは論を待たないですよね。その前の「別の労働」とは何でしょう。「人間労働一般」あるいは、「人間的労働力一般の支出」のことであり、そして、はじめのある労働とは、具体的姿態の労働でしたね。
つまり、ここには<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>など無かったのです。〉

フランクリンの引用文は異なった有用労働の交換についてのものであり、「別の労働」とは別の種類の有用労働として読むのが私の解釈です。人間労働一般と抽象的人間労働とは同義として私は理解しています。


10:Re価値関係とは概念的存在の表現
megumi 02/20 01:15
田中さん
>価値関係とは同量の価値量としての商品の関係ですから、そこにおける差異はもっぱら使用価値の差異であり、私が言いたかったのはそういうことです。

?価値関係とは、同質の価値関係でなく、価値存在の表現ですし、それ以外の表しようはありません。
「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。
 価値存在の表現とは、諸商品の交換関係にて、商品=物象による<抽象と判断>の明示を、?使用価値・価値の二要因であり、具体的有用労働・抽象的人間労働の二重性として示すこと、そして、?使用価値・価値形態、使用価値・交換価値として現象することを示すことです。
まとめると、「価値概念」の存在を立証することである・・・と、田中さんの回答を見て自分でも、新ためて考え直しています。

?次の、資本論四版「相対的価値形態の内実」の展開は、初版と初版付録での叙述を前提にしたハショッタ展開と思えるのです。

「しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。」(『資本論』原P64)

「上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する」というのは、上着のリンネルとの同一性は、上着自身の中にある「価値物」で示されるからでした。
これは両者の具体性が抽象されることで、「価値物」上着と共通性が規定されたのです。

?しかし、「他方では」他者である「等価物としての上着」と、価値としてのみ関係することで、「リンネルそれ自身の価値存在」が、自ずと具体的姿態の下に「現れてくる」――と述べています。
 次の例のとおりです。
「今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し・・」(同上P65)
 そのことが、労働の例ではこう表されました。
「織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際(事実上)に還元する。」(同上P65)
 そして、重ねて述べた。
「種類の異なる諸商品の等価表現だけが――種類の異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる諸労働を、人間労働一般に、実際(事実上――長谷部訳)にそれらに共通なものに、還元する」(同上)
 ここにあるのは、「価値物」としての諸商品の共通性の抽出とは区別された
「事実上の還元」・事実上の抽象あるいは、「現実的抽象」であります。マルクスは、二つの抽象を対比させているのです。

 次のように、理論的抽象を批判していたのです。
「価値抽象に還元」とは、商品形態が二要因の対立的規定において成立することの否定であるのですから、諸商品の具体的労働に共通者を求める理論的抽象批判でもあったのです。
「われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。個々では、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。」(四版原P65)

 二つの抽象の存在の提示は、了解できますよね。
後者の事実上の抽象とは、リンネルの等価物上着に与えられる形態規定なんですね。上着は、リンネルの等価形態であることから、使用価値であるのに直接的交換可能性の姿態を受け取りました。同じく、等価物上着の表す裁縫労働は、人間的労働力一般の実現形態として、リンネルの価値実体の共通者を現しているのです。
 
 初版でも、「人間的労働力一般の実現形態」が、具体的有用労働である裁縫労働に関して述べられていました。
「だから裁縫労働は目的が決められた生産活動、有用労働であるからではなくて、目的が決められた労働でありながら人間労働一般の顕現形態、対象化様式であるかぎりでのみ、リネンにとって重要になる。」(『初版』原P19今村訳)
 これは『初版』の註18aにある等価物上着の価値鏡の例示なのですが、このような反省規定であり、形態規定と同じことが四版の「事実上の抽象」として述べられていたのです。

?ところで、なぜ理論的「抽象」批判という形式で、価値実体の論証をおこなっているのか?というマルクスの意図ですね。

 次の「まわり道」の提案の意義ですね。
「しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。」(四版P65)

 人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働に、自らを反照(反省)させる(「まわり道を通った」)ことで、「織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られる」と述べたのです。ここに、商品が価値関係を結ぶことでの、事実上の<抽象と判断>が明示されたのです。(「ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」(資本論四版註18)とあるように、反照させる相手が、人間的労働力一般であるからこそ、織物労働は、「両方の労働のうちの現実に等しいもの」を見出すことが出来、「抽象的人間労働」と、我が身を判断することができるのではないでしょうか?)

このように、「まわり道」を通ることでのリンネル織り労働の抽象化を主張し、具体的有用労働の抽象化による価値実体の論証を、<商品は概念的存在>と批判していたのです。
<人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働>とは、抽象的人間労働の現象形態としての裁縫労働の等価形態での表し方ですから、「まわり道」を、反照とすることで、リンネル織り労働の価値姿をそこに見て(反省)、リンネルの価値実体が抽象的人間労働と自ら判断しているのですね。価値の現象形態としての使用価値上着に、価値リンネルを反照させて、使用価値リンネル――との規定が語られる・判断されるのですね。(親子関係と同じく反照させているのだから、メカニズムでもなく、使用価値による価値の表現とも異なっていたのです。)

 一対の商品の二要因が、諸商品の関係では、等価物に反照されることで諸商品に対極的に表現されるのですし、等価物上着が、価値形態をとるならば、反対極でリンネルは使用価値と判断されるのです。価値関係はこのように概念的存在であり、等価物が三つの独自性をしめすことで、そこに反照するそれぞれの対の他方を、反対極で使用価値・具体的労働・私的労働と判断していたのです。商品を、使用価値・価値の二要因と規定し、使用価値・価値形態(交換価値)と二重の姿態で判断するので、私たちは、物象の意志支配の下で、自らの判断と思い込みながら商品交換ができるわけですね。(このような等価物上着の役立ちでの抽象の説明が、「価値抽象」批判であったのです。そして、鉄を重さの現象形態とすることでの砂糖体の重さ表現での役立ちの文化知)

 そこで、使用価値が価値の現象形態となることで等価物上着の役立ち、あるいは、まわり道の対象――を果すのですから、具体的有用労働と抽象的人間労働などの商品の二要因を混同していたら、商品の価値関係による<抽象と判断>は形成されず、それを物と物の関係と理解し、人間の意志諸関係が商品関係を形成することになり、社会革命は、政治革命に全てを託すことになります。


11:Re: Re価値関係とは概念的存在の表現
田中 02/20 11:14
〈「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。〉
megumiさんもご承知のように、マルクスは価値形態論とならんで、自らの発見あるいは独自性として労働の二重性の把握をあげています。古典派は価値の実体としての労働を把握しながらも、経験論的観点の限界ゆえに、価値実体の抽象性を明確にできなかったのです。社会的必要労働時間の概念をリカードは持っていたにもかかわらず、それを直接的な投下労働時間としてしか把握できなかったのは、「蒸留法」としての理論的抽象すら明確になされていないからでした。複雑労働の単純労働への還元は把握していたにも関わらず。
ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
商品生産社会に固有な労働の社会的性格としての諸労働の抽象的同一性である抽象的人間労働を超歴史的概念として把握するのも、同じ理由からでしょう。そのような理解は、物象としての商品の交換関係としてしか労働の社会的関係が存在しえないことの無理解に原因があると思います。つまり物象関係の背後には本質としての人々の社会的関係が存在すると考えているのです。社会的平均化は交換関係でしかなしえないことが理解されないのも、同様です。社会的平均化を抽象的人間労働への還元として理解するならば、価値形態論における回り道とは物象的関係としてのみ労働の社会的性格が成立するその仕方を解明したものといえるのではないでしょうか。
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。では相違はどこにあるのでしょうか。私が思うにそれは抽象的人間労働の量的規定に具体的有用労働のそれをリンクさせて考えるべきか否か、という点だと思います。社会的必要労働時間あるいは社会的生産性とは、ある一商品において問題となるものであり、他の商品の社会的生産性とは区別されるべき問題です。商品の種類あるいは区別とは、やはり使用価値の相違であると私は思います。
この問題を単なる生理学的支出としての側面から考えてみたのが、前々回の投稿文なのです。複雑労働の単純労働の還元の問題は、具体的有用労働の種別の問題であるのです。異なる具体的有用労働を質的に同一化し、さらに判断として量的比較を成立させるためには、単なる生理学的支出としての質および量への還元が必要なのです。具体的有用労働における消費カロリー単位での同一化と比較、価値実体と有用労働との関連とは、以上のような問題ではないかと、私は考えています。
私が関連にこだわるのは、協同社会における労働時間に基づく生産の計画、財の構成員への分配という場合の労働時間とはどのようなものとして考えるべきか、という問題を意識しているからです。この問題を価値実体としての抽象性をいかに具体性へと回復させるのか、問題の立て方が正当かどうかを含めて、今後詳細に考えてみたいと思います。


12:Re: 複雑労働の単純労働への還元
megumi 02/22 02:03
田中さん、次のは旧戦旗派に属して、宇野経済学に依拠した人物の<交換価値から還元される共通者>の理解を示した、典型例です。

 「およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
 ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間によって決定される。このことを「価値法則」という。」
マルクス『賃労働と資本』学習ノート
草加耕助 f(^^;) 「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)より
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=76)

ここには、「価値抽象」の理解しかありませんし、交換比率から共通者価値を求めるカウツキー理論の普遍的継承があります。しかし、草加耕助氏の論文でわかるように、ここには、新左翼・宇野経を学んだ人々が、スターリン経済学との雑炊に頭がかき回されていることの証明ではあります。

価値抽象と、事実上の抽象とを分ける榎原さんの理論的抽象批判としての文化知の決定的意義の普遍化がとても大切です。

複雑労働の単純労働への還元は、二つの抽象のどちらに属することでしょうか?
事実上の抽象に属することですか?経済的形態規定に属するのですか?
それとも人間的労働力一般の実現形態から反照される・反省規定を受け取る(回り道を経ての)労働(抽象的人間労働)に属することでしょうか?

複雑労働の単純労働への還元は、社会的必要労働時間の単位となる社会的平均労働力の規定の仕方にかかっている。
それは、社会的実体である人間的労働力一般の支出での個人的労働力の規定であったのだから、共同体での共同主体的な人的労働力の支出とは異なることが前提された規定であり、量的存在としての交換価値から還元される共通者としての社会的実体であったのだから、労働生産物の具体的姿態の全てを捨象(抽象ではない)した意味での、価値実体・人間的労働力一般の支出であったのです。

ところが宇野は、社会的実体を「労働・生産過程」とする理解から、個人的労働力の社会的平均労働力としての単位での支出を(私的労働に他ならない)、すでに、社会的実体であるからと、「労働時間もまた社会的労働として計量されねばならない」(『資本論の復権』P127からの孫引き)としたのですね。社会的平均労働力の規定は、「現存の社会的・標準的な生産条件と労働の熟練及び強度の社会的平均度」からもたらされるも、労働過程が社会的結合をしている共同体ではないのだから、私的労働でしかないのでした。(『復権』に、「宇野の場合、価値の実体を生きた労働に求めたが故に「労働=生産過程」を実体化しこれを社会的実体へと祭り上げ・・・」同P181とある。)

この 宇野流社会的実体の理解は、ローゼンベルグの社会的実体の批判としてあったのではないか?
「交換価値としてはこれらの商品は単に労働生産物であるに過ぎぬ。」(『資本論註解』?P107)
使用価値の量的比率としての交換価値から還元される実体が、「労働生産物」なのですから、生産過程での流動している生きた労働・人間的労働力の支出が、ローゼンベルグにとっては、価値実体なのですが、その先を読んだ宇野にとっては<生産過程が社会的実体>であると主張しているように見えたのだと思うのです。

このような宇野さんの労働過程での人間的労働力の支出の表象が、具体的労働を抽象(捨象や還元ではない)した生きた労働にあるのであれば、社会的必要労働の単位が、共同体的な社会的実体による労働力の支出なのか?資本制的な社会的総労働力の個人的な平均労働力の支出なのか?の相違は、問題にされないのではないかな?価値関係が使用価値の量的側面の関連としか意識されず、質的側面の関連は意識外に追いやられてしまうのですね。(後日の訂正を加えてあります。)

さて、<複雑労働の単純労働への還元は>それぞれの具体的労働を抽象したものとの意見をもつのであれば、価値とは、社会的単位でなく、使用価値の物的属性(表示される労働の二重性は混同されますね)であり、商品関係とは、物と物との関係の超歴史的な究極完成された社会関係となるのですね・・・・・・


13:Re: 複雑労働の単純労働への還元
名無しさん 02/26 10:41
〈複雑労働の単純労働への還元は、二つの抽象のどちらに属することでしょうか?
事実上の抽象に属することですか?経済的形態規定に属するのですか?
それとも人間的労働力一般の実現形態から反照される・反省規定を受け取る(回り道を経ての)労働(抽象的人間労働)に属することでしょうか?〉
理論的抽象を用いて価値実体を導出している1、2節では、還元は理論的なものにとどまります。抽象の具体的メカニズム―これこそが事態抽象としての回り道なのですが―を解明している3節価値形態論においてはじめて事態抽象であることが把握されると私は解釈しています。ただ理論的抽象とはいっても、交換関係の内部で現れる結果からの抽象であるので、事態抽象の結果としての還元の直観的把握であるといえます。そのかぎりで超歴史的概念として1,2節での抽象的人間労働を把握する解釈は誤っています。
事態抽象では複雑労働の単純労働への還元としての社会的平均労働力への還元が行われると同時に、生産条件の社会的平均水準への還元も行われるのです。社会的必要労働を規定する要因は、労働過程としてみた生産過程の二つの契機=生産手段と生産的労働に対応した二要因であると解釈しています。
「社会的に必要な労働時間とは、(1)現存の社会的・標準的な生産諸条件と、(2)労働の熟練および強度の社会的平均度をもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。」(p.66)
(1)は同一の商品生産部門内の平均化ですが、(2)は同一部門の平均化をさらに尺度としての単純労働への還元を意味しています。そうでなければ価値実体としての労働ではなく、したがって価値量を規定する労働たりえないからです。
抽象的人間労働が具体的有用労働と何らかの関連を持ったものでなければ、生産条件の変化が価値量に影響することはできないのではないでしょうか。生産条件の変化は、労働力の平均的存在が不変であれば、尺度としての抽象的人間労働に影響は与えません。一時間当たりxキロカロリーの生理学的主出を抽象的人間労働の一時間とする、といったような形での還元は、それが具体的有用性を捨象したものであること、つまり生産条件との関係抜きに規定された単なる人間的労働力の支出であるため、生産条件の変化の影響は受けません。しかしそれがある商品の価値量を規定するさいには、その商品に含まれる価値実体量は変化します。今まで二時間で作れたものが一時間で作れるという事態を考えてみましょう。当然のことながら、労働時間の変化はまず具体的有用労働時間の変化として現れます。労働の社会的平均度、すなわち尺度単位としての労働力が変化しないとすると、生理学的支出量は有用労働一時間あたりでは変化しません。しかしその一時間が生産する商品は半分になるので、一商品あたりの抽象的人間労働量は半減し、価値も半減します。
このように具体的労働と抽象的人間労働との関連を考えなければ、価値論は理解できないと思います。
megumiさんは社会的平均という作用をどのようなものとして考えているのでしょうか。平均の元となる数量はどのような量なのでしょうか。抽象的人間労働自体が平均化の産物であるとするならば、平均の元に抽象的人間労働を考えることはできないのではないか、このように私は考える次第です。


14:Re: 共通認識
 02/27 03:19
ちょと後戻りします。
田中さんの主張
>ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
・・・・・・・・略・・・・・・・・・
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。

田中さん残念ながら、これらの主張には、
>われわれの共通認識
はありません。
>私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態
とは?「価値」でなく、価値形態であり、等価物である使用価値上着をへての回り道だからです。価値形態・使用価値の二重の商品形態とは、価値関係の質的側面であり、価値形態の秘密としての使用価値が価値の現象形態に反照(反省)させての、両極での規定としての価値・使用価値の現れであるからです。反省規定としての超感性的な価値形態なのですから、等価物上着をその姿態のままに使用価値であるとみる<価値関係を使用価値の関連>――とする見解には、この「反照」への文字どおり反省が無く、物象の社会関係への理解はありません。

どうだったでしょうか?使用価値リンネルには使用価値上着が等置されましたか?
使用価値リンネルには「価値物」上着が等置されました。使用価値・価値物の関連が与えられるからこそ、等価物上着の等置であり、価値形態上着の規定の現出でありました。相対的価値形態の対極にある等価形態上着は、直接的交換可能性が与えられているのですから、上着の自然的属性が価値でありと見えますが、そうでなく、等価形態の謎性に惑わされたからでしたね。価値関係とは概念的存在なのですから、超感性的な価値形態上着の規定がなければ、商品は互いに価値関連し得ないのですね。価値関係の質的側面への理解は、リカード・ベイリー論争への総括が必要ですね。どうか、田中さんも草稿集の7巻P184以降P249を参照願います。


15:使用価値と交換価値
megumi 02/29 04:02
田中さん
交換過程で商品が、使用価値と交換価値の二つの姿態を持つというのは、具体的な現象ですが、価値形態と使用価値の二重の姿態を持つのは、価値関係が概念的存在を立証することでの分析の結果でありました。

「価値形態が概念的存在」であると榎原さんは次の二つの論文で強調していました。

もう一つの社会変革の可能性
(続)支配的文化のルーツ

 そこで価値形態の話になるんですが、2時間はかかる話を1分間にちぢめてしまいます。ポイントを言いますと、商品とか貨幣とか資本を単なる物ではなく物象という場合、それはその存在そのものが概念的存在である、ということです。概念的存在ということの意味ですが、それは人がこれらの物に自分の意志を宿すことができる、ということです。人がある判断、こういう時にはこうであるという判断をするとき、もちろん自分の頭で考えて自分で判断するわけですが、商品、貨幣、資本が登場してきますと、その判断を人は相手にあずけているんですね。自分の意志を相手にあずけている。もちろん自分の頭は使っているんですが、その判断の内容が相手によって規制されている、そういう関係なんですね。この関係が支配的文化のルーツにあり、ブルジョア文化の特性を形づくっていると思います。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=6

根源的他者と価値形態論

 ここではこれまでの批評との関連で、形態規定について考察してみよう。なお、当然のことながら、ここでの議論は、自著で明らかにした諸論点を前提にしている。
 価値形態が概念的存在であり、一つの思考形態であるにもかかわらず、思考と同一の規範をもたず、双方の間には根源的な他者性が見いだされること、このことが明らかにされると、思考にとっての問題は、この他者が一つの思考形態であることを了解することである。
 マルクスの価値形態論の従来の解釈は、このような問題が存在することに気づかず、他者である価値形態に思考の論理をもち込むことによって、自らの思考を混乱させてきたのであった。

・・・・略・・・・
このような事業は、思考にとっての根源的他者たる思考形態の存在を認めないがゆえにブルジョア文化と科学、及び哲学によってはなしとげられない。そして、この根源的他者を認めるところから、ブルジョア的な知の自己否定がはじまる。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=14


田中さん、人間の思考形態と、価値形態の思考形態との相違を認める・総括することが求められていると思うのです。

それが理論的抽象と事実上の抽象の相違として、価値形態論でまとめられていると思うのです。
商品の交換過程では、諸商品は、異なる使用価値の関連として現れてきます。しかし、使用価値と非使用価値つまり、自分にとっては使用価値で無く他人のための使用価値の関連ですね。
「使用価値としての諸商品相互のこのような過程的関係においては、諸商品は何ら新しい経済的形態的規定性を受けない。」(『経済学批判』国民文庫P45)

この困難の解決が、「等価物」の規定なのですね。

経済学批判でのこの展開と、草稿でのリカード・ベイリー論争を経ての資本論での<等価物上着の役立ち>を明示した価値形態論という概括ができるのではないか・・・・と思うのです。
しかし、このようにマルクスの歩みを辿ることができれば、『経済学批判』の記述でのマルクスの苦闘には頭が下がります。


16:Re: 使用価値と交換価値
田中 03/01 09:29
(1)「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」(新日本新書『資本論』1、p.62〜63)

(2)カウツキーなどの解釈では「交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

(3)「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

megumi さんは交換価値概念を二重化して考えているようですね。諸商品の量的比率としての交換価値とは使用価値の側面を捨象したものではありません。使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。
 私はこの「一つの等しいもの」は価値であり、同時に抽象的人間労働であると考えています。対象的形態としてとらえるならば価値であり、その実体としての、あるいは活動的形態としてとらえるならば抽象的人間労働であると解釈します。マルクスの叙述にも次のように記されています。

(4)「諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現われた。そこで、労働諸生産物の使用価値を現実に捨象すれば、いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表わしている共通物とは、商品の価値である。」(『資本論』p.65)

megumiさんの解釈は(1)における「第一に」文章と「第二に」文章のあいだにある「しかし」という訳語を厳密に解釈していることだと思います。この「しかし」は原語は確かにaberだと思いますが、榎原さんの引用における長谷部訳では「ところで」となっているようです。「ところで」という訳は不正確でしょう。別に話題を転換しているわけではないからです。私は「そして」と訳したいと思います。前文が否定文の場合であれば妥当する訳でしょうが、前文が否定文でないので、かなり強引だとは思います。しかし(4)などをみれば「一つの等しいもの」と「それとは区別されうるある内実」とはおなじ事柄を指していると考えられます。そのような文脈理解の下でわたしは「そして」と訳したいのです。
初版だけではなくフランス語版にも(1)の後半部分―「第一に」以下の部分―が存在しないというのは、マルクスがaberの誤解をさけるための措置だったのではないか、このようにマルクスの意図を斟酌すべきでは、というのはあまりにも穿った見方でしょうか。
現在草稿集のベイリー批判を検討中ですが、わたしはその本質は(1)に凝縮されていると思っています。したがって私とmegumiさんのわかれめは以上の点にあるのではと思い、瑣末な事柄ではありますが、提起させていただきました。
また、さまざまな使用価値で表現される交換価値がひとつの交換価値として表わされるというのは、一般的等価形態のことであり、価値実体論の段階では想定しえないのではないでしょうか。


17:Re:諸交換価値と交換価値
 03/01 20:07
田中さん
>このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。

わたしは、
>「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」
と書いたとおりに理解しています。
>「一つの等しいもの」・・・・とは、
>その共通者としての同等な人間労働に還元され、
と述べています。

田中さんの述べる
>使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。

わたしは、商品形態である使用価値と交換価値の二重の姿態・・・の交換価値は、価値の現象形態であるので、使用価値の質的関係とは無縁なものであり、交換比率とはみなせないかと思います。

次のところの理解ですね。

簡単な価値形態の全体
「一商品の簡単な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。」(四版原P74〜75 )

私の解釈が、この「質的」なことばかりを意味しているのではないかということかと思います。
「量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。」
ここが、田中さんには量的比率であると主張されるのでしょうか?
「量的には、一定量の商品B」であり、量的なおおいさをのみ示すX量の商品Bであり、価値の現象形態としてのみ意味をもつ存在です。使用価値は捨象されて物質的基体としてのみ意味をもつ商品体Bであり、けっして「諸交換価値」ではありません。
 私はそのように考えています。

『初版』付録に次のような記述もありました。

§5商品の価値表現の単純な形式は、その商品の中に含まれている使用価値と交換価値との両対立物の現象する単純な形式である。

亜麻布の上着に対する価値関係の中では、亜麻布の生来の形式はただ使用価値の現象形態として働くだけであり、上着の生来の形式はただ価値の形式として、あるいは交換価値の現象形態として働くだけである。従って、商品の中に含まれている使用価値と価値という内なる対立は、外なる対立となって現れる。つまり、二つの商品の関係として表現される。その時、一方〔の商品〕は直接的には使用価値として働くだけであり、他方〔の商品〕は直接的には交換価値として働くだけである。あるいは、この二つの商品の関係の中では、使用価値と交換価値という二つの対立する規定が〔二つの〕商品のそれぞれに対極的に〔別々に〕割り当てられるのである。

私が「商品としての亜麻布は使用価値及び交換価値である」と言うとすると、それは商品〔亜麻布〕についての私の判断であり、それは〔認識主観による〕分析によって得られたものである。

しかし、20エレの亜麻布は1着の上着に等しいとか、20エレの亜麻布は1着の上着に値するといった表現の中では、?亜麻布が使用価値(亜麻布)である.こと、?亜麻布は使用価値とは区別された交換価値(上着に等しいもの)であること、そして?亜麻布はこの二つの異なるものの統一であり、商品であることを、亜麻布自身が語っているのである。(『対訳・初版資本論第一章・及び付録』牧野訳P116〜117)


価値実体を廻る論争としては、『資本論の復権』P167で、
第3者を抽象的人間労働としていますし、
或る内実を価値として区別しています。

この第二章、三章がこの問題をめぐるもので、榎原さんが、<俺の良い仕事>と自慢するものではないでしょうか。

その三章末尾近くに、
「価値と価値実体を混同することが、日共系学者や、反日共系の学者を問わず「通説」になってしまっているが・・・」
との記述もあります。『資本論の復権』第二章、三章をぜひ検討され、榎原さんに注文をつけてください。理解を得ているのが私などの少数者なのですから、(宇野経は自説の再検討などしない)何か欠点があるはずです。是非とも文句をつけてください。貴方の文句について私も考えますので・・・
田中さん、『資本論草稿集』7のベイリー・リカード論争へのマルクスの肉迫は、驚嘆しますよね。
次のページも開いてみてください。
http://www.freeml.com/yaponesia/5?sid=cc3dced341177d7bf1c9a73a92777c55


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