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ハーヴェイ論を読んだ上でのシュタイナー論補足

1:ハーヴェイ論を読んだ上でのシュタイナー論補足
田中 02/01 10:59
ハーヴェイ論(下)を読みました。その読解を踏まえて理論と実践の関係について私のシュタイナー論への補足を行いたいと思います。
森さんは「個人的感想」で次のように述べていました。「とにもかくにも日々の社会問題や道徳問題は現実に解決しなければならず・・・私達の間にもその様な有意義な協力関係が築きうるのかどうか」が最大の問題であり、「自我や意識の規定に関する理論的理解の相違の是非の問題などは、それに比べれば取るに足らない枝葉末節の問題にすぎないのでしょう。」
私は理論的な相違があることと実践上の協力関係を構築しうることは別の問題であることを認めます。森さんへの最初の批判で述べたように、森さんが提案されている実践的項目に異論はないのです。ハーヴェイも「平等なライフチャンスの権利」を根本的権利とすべき項目の筆頭に挙げています。ハーヴェイが言うように「今必要なのは実行可能なオルタナティブ、現実的な可能性を特定することにつながる政治プロセスを開始すること」が社会変革を目指す人びとにとって緊急の課題であることは、お互いの共通認識だと思います。
しかし理論上の相違が「取るに足らない枝葉末節の問題にすぎない」とは思わないので、論争を仕掛けたのです。というのも、まず第一に、理論的な問題、あるいは日常意識をふくめてより広い言いかたを、シュタイナーにならってするならば「精神生活」の問題は、それが具体的な社会問題を扱う以上社会的諸関係の分析を欠いては抽象的なものにととまざるをえないからです。ハーヴェイが指摘しているように、例えば「自由」概念一つをとってみても支配階級が提起する自由の内容とマルクスが提起するそれとは内容的にまったく正反対なのです。従って各々の道徳的価値を具体的に検討しつつ、「支配者側の巨大メディアを使った仕掛けに対する道徳における文化闘争」を展開しなければならないと思うのです。
第二に、さしあたりの実践的課題において一致しえたとしても、最終的目標が異なる場合があります。シュタイナーの提起する変革の目標は商品・貨幣、また資本の私的所有を廃棄するものではないが、私にはそれが必要不可欠だと考えています。どちらが正しいかは実践において証明されるほかはないのですが、共同活動の中でも議論されるべきで、さらにそれが実践における発展を生み出すのではないでしょうか。「実践上の平和共存」は運動におけるセクト主義を排するために絶対不可欠ですが、「思想上の平和共存」は運動目標の曖昧化をもたらすように思えるのです。
森さんが行っている実践活動に敬意を表しつつ、以上指摘させていただきました。回答をくだされば幸いです。



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