。ヲ office-ebara
田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想

1:田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想
森 真澄 01/05 04:31
榎原様におかれましては、前回の投稿でもお世話になり
ありがとうございました。
榎原様のメールアドレスが、コンピューターを変えた際、
わからなくなってしまったので、ドキュメント添付メール
を送付出来ないので、この様な形で、田中氏のシュタイナー
批判1に対する個人的感想を、リンクにて紹介投稿させて
いただきます。
今回は、学問的な厳密な反論と言うより、大ざっぱな
感想になっております。
それでは、下記URLをクリックして下さい。

田中氏のシュタイナー批判に対する個人的感想

2:Re: 田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想
田中 01/14 14:40
私の「シュタイナーの社会理論に関する批判的検討」(以下「検討」と略)(1)は、シュタイナーの社会理論そのものの検討の前段として、シュタイナーの方法論を検討したものです。社会理論に関する具体的な検討はまもなく掲載される(2)で行っていますので、そちらをご覧ください。
(1)社会三分節化論と霊学の関係について
霊学と社会三分節化理論との関係は、解釈の相違と考えるほかはないようです。(1)の末尾で述べたように、社会三分節化論はすべてを霊学の観点から行っていない点は、私も認めるところです。しかし、第一にシュタイナーの変革論が個人の自主的な道徳的判断に基礎を置くものであること、第二に道徳の形成を霊学に求めていること、以上二点から社会分節化論と霊学とは切り離せないのではないかというのが、私の解釈です。社会三分節化論それ自体を理解するのに霊学の知識が必要でないことは、霊学にふれたことのない私でも解釈できたように、私も否定しません。問題は分節化全体を支える理論、あるいは分節化の形成力としての道徳をシュタイナーが主張し、「私たちを道徳行為に駆り立てるもの」が「霊界から来るのではないとすれば、それは真の現実性をもちません。」(『未来』p.77)と述べていることから、三分節化論の方法論として霊学が存在することは否定できないのでは、ということです。
わたしはシュタイナーの霊学的観点を理論的に批判しているだけであり、そのような観点を持っていること自体を非難するものではありません。非難という語が排除的作用あるいは差別的作用を意味する限りでは、そうです。信教の自由を認めるということと、宗教を批判するということは、別の事柄ではないでしょうか。旧社会主義国の誤りは両者を同一視したことだと思っています。
(2)唯物論と道徳あるいは精神問題の関係
私は確かに唯物論の立場ですが、榎原さんの諸論文に学びつつ、(1)で述べたように意識を関係として捉える観点に賛同します。したがって、「道徳や真善美や喜怒哀楽や愛と憎しみなどのいまだ解明にいたらない精神活動のすべてが幻想にすぎないもの」とは考えていません。それらは「幻想」ではないがそれ自体を自立的な超歴史的なものとして把握することを批判しているのです。それらの意識形態がどれも他者との関係を含むものである以上、人びとの社会的諸関係による規定性をまぬがれるものではない、このように述べているわけです。社会的意識諸形態という用語も以上のように理解しています。したがって、「もし霊的、魂的存在の現実性を否定するなら、いかなる道徳の根拠も喪失し、人間の道徳は荒廃死滅せざるを得ない。」のではなく、道徳の根拠の求め方が異なるのです。
たとえば「自由」という語を一つとっても、それが使用される社会定文脈によって様々な意味があるように思われます。その具体的内容を問題にするのが唯物論の立場だといえるでしょう。単に物質的状況の反映として片付けられる問題ではないと、私は考えています。






3:Re: 田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想
田中 01/15 10:15
(1)の末尾が誤解を招く表現であるので以下のように訂正します。
旧社会主義国の誤りは両者を同一視したことだと思っています→旧社会主義国の誤りは両者を区別せずに、宗教批判=宗教の否定・抹殺としたことだと思っています。

4:Re: 田中氏のシュタイナー批判1に対する個人的感想
境 毅 01/21 15:40
田中さんの「シュタイナーの社会理論に対する批判的検討」の続きが論争のページ、モモのところに掲載されましたのでお知らせします。

5:Re田中さんの森さんへの意見を読んでの少しばかりの感想
megumi 01/23 00:11
田中さんは、「シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(2)」の
「(2)労働の位置づけについて」でこう述べました。

「そこでは賃労働者も労働力商品の所有者として登場する。商品所有者としては、労働者は資本家と対等な関係(交換関係)にあると考えられている。しかしひとたび生産過程の内部に入ると、それは労働者を資本の一構成部分として資本家が支配する関係へと変化する。」

なんと資本制的取得法則の転変ですか・・・先の羽仁五郎の『都市の論理』にもびっくりしていましたが、今度のは一層感銘深いですね。連赤の「銃撃戦と粛清」の時期に、スターリン主義批判と反スタマルクス主義の止揚・「資本主義批判」による「階級闘争の原則」・・・必死に頭に叩き込んでいました。何十年たったでしょう・・・・・・・
 『経済学批判要綱』に依拠した「資本と労働の交換の二つの過程」による、第一の過程が形式に転変することによる宇野労働力商品化論批判・・・ウーム・・・と考え込んでしまいますね。『要綱』のチンプンカンプンの叙述には、しかし、閉口しましたね。ほんとに、未だに開けても理解しがたいです。

この「資本主義批判」の抽象性の総括の材料が、一つは価値形態論による物象化論の提起による物化論の「幻影的形態」という批判による、転倒の批判にあると思うし、もう一つは、価値尺度論をふまえた貨幣の流通手段の機能での次の提案であると思うのです。

「こうして、商品は貨幣を恋したうが、“まことの恋が平穏無事に進んだためしはない”。分業体系のうちにその“引きさかれた四肢”を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じく、自然発生的・偶然的である。それゆえ、わが商品所有者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ部分が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立のものとすること、諸人格相互の独立性が全面的物象的依存の体制によって補足されていること、を見いだすのである。
 分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。」(資本論三章2節a流通手段)

次に、労働過程と価値増殖過程を物象化論として構成することですね。マルクスの視野は、プルードン批判であり、リカード派社会主義の批判であった筈です。その理解の上で、スターリン経済学と宇野経の批判であると思うのです。

どうにも、私の思考回路はこんな感じです。そんなところから浮かぶのは、シュタイナーの社会有機体説は、この「物象的依存の体制」へのブルジョア個人的批判にあるように思えるのです。

その上での資本論五章での、資本の人格化としての資本家・他方での労働者となるところでの、「流通過程に属する仮象」の転倒批判です。こうすれば、ふるい昔の抽象性が克服できると思っています。


6:Re: Re田中さんの森さんへの意見を読んでの少しばかりの感想
田中 01/23 08:51
「資本制的取得法則の転変」に関しては『資本論の復権』の重要テーマとしてこれまで理解していましたので、megumiさんの感想は意外です。megumiさんの労働過程と価値増殖過程に関する議論を完全に理解しきれていないのですが、この「転変」の抽象性を具体的に論じてもらえるとありがたいのですが。
転倒批判でいわれる資本の人格化としての資本家というのは解るのですが、労働者は労働力の人格化なのでしょうか。それとも労働力商品の人格化なのでしょうか。前者は労働力自体が労働者の人格的力量であることを考えると、特殊歴史的な経済的形態規定とは少し異なるような気がします。また労働力商品の人格化であるとすれば、他の商品における人格化と同一視できるものか、私は悩むところです。労働力という商品が労働の対象化として存在しているのではないからです。
私は浅田彰が騒がれていたころに大学入学ですので、新左翼の実践についての経験はありません。したがって連赤事件の総括という重い体験をしていません。もちろんマルクス主義者を名乗る以上、自分なりに総括というか批判的検討をしなければならないかもしれません。ただ実際に活動していない人間が評論家的に言うべきではないだろうし、榎原さんの政治革命先行説批判で理論的な総括は終わっているような気がしています。
実践の同時代的経験が理論に与える影響は、その理論が実践を志向すればするほど大きいのかもしれません。このような点を留意しながら第5章を検討しなければと思いました。


7:経済的隷属の抽象性について
megumi 01/26 00:14
>使用価値の処分権がその所有者にあることは商品流通の帰結であるが、労働力商品の場合、それは労働者の能力として存在しているがために、使用価値の処分権は同時に労働者への支配権として存在する。商品所有者という形式における対等な関係(法的契約関係)は経済的な支配関係をその具体的内容としているのである。

単純再生産を、田中さんは扱っていますので、そこでの論議としましょう。
「かくして資本制的生産過程は、それ自身の進行によって、労働力と労働条件との分離を再生産する、かくすることによって、それは労働者の搾取条件を再生産し、永遠化する。・・・後者を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げかえし、彼自身の生産物をたえず前者の購買手段に転化させるということは、過程そのものの筋書きである。」(資本論21章)
 労働者が生産過程で譲渡した使用価値・労働は、価値の源泉としての役立ちをはたすことで資本を生産し、他方で、使用価値として消費されたスッカンピンの労働力も生産しました。工場から帰ってきた労働者、資本家に労働力の処分権を譲渡した契約金を後払いでいただくのですが、資本家が用意した可変資本は、しかし、彼が以前に与えた不払い労働で占められているのだから、労働力の処分権の等価ではなく、交換関係は仮象であり、剰余価値を生産するための過程の筋書きであり、労働者は独立した人間ではなく、鎖をつながれたローマの奴隷のように、資本家階級に経済的に隷属している・・・ということでありました。

さてそこで、第一の労働力商品の交換過程は、他の諸商品と同じく市場での交換なのですから、自由な市民の契約と同じく、「自由・平等な交換関係」であるはずだし、また、そのように現象しています。それがどうして、経済的隷属になるのですか?71年当時、この転倒を、「コペルニクス的転換」と集会でアジっている人もいました。
「コペルニクス的転換」なら、天動説から地動説への転換を証明する、地球の公転・自転が説明されることで、具体化されねばなりません。そうですね、其処によって立つ神学と科学の相違ほどの違いがあると思うのです。
国民文庫にある『資本論入門』岡崎さんの著ですが、資本論学者らしく、ちゃんと22章の取得法則の転変は押さえています。でも、資本の生産過程では、搾取の説明だけですし、人格化した資本の生産の説明などありません。だから彼らには、当然にも第一の過程は、自由平等な資本と労働との交換過程でしかありません。その因は、何よりもかれらの情けない価値論に原因しています。
「労働力の価値または価格の労賃への転形」の問題でもそうです。「労働の価格」がいくら支払い労働から必然的に生まれてくる「想像的形態」と言ったって、そのように見えているのですから、いくら資本論17章を学習したって、人々にとっては抽象の世界でしかないですよ。
わたしたちの住む社会が、物象的依存の体制であるのですから、日々の無数の商品交換の中で社会生活を営むならば、資本関係への批判も、貨幣関係(物と物の関係・幻影的形態)の日常的意識の中で、絶えず解体されているのではないですか?
商品の細胞形態に潜む「物象化」を暴き出し、商品から、貨幣・資本・・・と運動し、転化していく過程においても、物象の人格化・人格の物象化を露出させる新たな知の形式をこそ、マルクスさん提起したのだと思うのです。

>労働力の人格化
経済学的範疇としては、資本の対極としての賃労働であるでしょうが・・・第二の過程での使用価値を労働力と考えればそうであるし、具体的有用労働と考えればそれは間違いであるし、・・・なかなか結論が出ない課題です。

森さんの抽象的個人の批判としては、すばらしいと思います。


8:Re: 経済的隷属の抽象性について
田中 01/26 08:04
誤解していました。マルクスの転変説自体を抽象的だと批判しているのかと思いました。私の展開への批判だったのですね。再度検討してから具体的なコメントをします。

9:Re: 経済的隷属の抽象性について
田中 01/26 08:48
抽象性批判について以下のように理解しました。私の叙述だと生産過程での指揮・命令としての資本の支配しか述べられていない。生産過程自体が資本―賃労働関係の再生産、すなわち労働力商品の再生産であるというが看過されている。資本家が支払う労賃自体が労働者の生産した価値であるから、単純流通における商品所有者同士の交換の前提たる「自己労働」の結果得られた貨幣の支出と労賃の支払いとは異なることが指摘されていない、このようなことでしょうか。以上のようなものであるとするならば、私の書き方が不十分でした。そこまで展開しなくともシュタイナー批判として成立すると思ったのでしょう。
物神崇拝に基づく批判意識の解体に関してですが、上記のような批判的展開を常に提起しなければならないということだと理解しました。確かにその通りだと思います。理屈をこねているだけの私が言える筋合いではないのですが、この問題は知の形式だけでは解決しきれないと思います。実践的な方法―地域通貨LETSや労働者生産協同組合の実践―でしか解決できないのではないでしょうか。今現在の私としては傍観者的な立場から榎原さんが行っている実践活動を固唾をのんで注視しているといったところです。


1-

BluesBB ©Sting_Band