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商品の二要因について再論

1:商品の二要因について再論
田中 10/28 12:57
私の投稿に矛盾した記述がありますので、もう一度整理しておきたいと思います。

 (a)「価値関係の両項は商品ですから、関係以前に価値です。商品は単独の存在としては、使用価値と価値との統一であるからです。そして矛盾した規定が統一されているがゆえに、それは同時に「内的対立」なのです。」
 (b)「価値関係とは「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」ではなく、その関係によってはじめて同一性としての抽象的人間労働が規定されることを解明する、ということでしょう。つまり抽象的人間労働とは、関係によってはじめて成立する社会的実体であることが、価値形態論において明らかにされた、ということです。」
 (c) 「つまり商品という場合には、それを単独で考察する場合でも、価値関係が前提となっているということでしょう。」
  
 (a)の叙述において、「関係以前に価値で」あるというのは
誤りで、価値を社会的関係の関係なく存在する実体のようないいかたでした。撤回します。(c)が正しい把握だと思います。
 megumiさんの批判は、このように関係のなかでのみ価値を把握するのは、価値を単に相対的価値=交換価値として把握するにとどまるのではないか、ということだと思います。そしてそのような理解は、抽象的人間労働の直接的体化物としての等価形態を把握できないのでは、というように、私は理解しました。ここでもう一度、一商品における二要因について考えてみます。
 まず出発点は前回の投稿で述べたように、商品=商品生産社会において労働生産物がとる社会的形態を、社会的生産関係がそこで唯一成立する物象的形態として把握することです。そのような意味で(c)文をのべました。
 では一商品に内在する価値というものはないのか、ということですが、関係による形態規定を、それが自己の内的規定として、つまりヘーゲル流にいうと自己内還帰するものとして、理解することによって、解決できるのではないでしょうか。価値とは社会的に必要と認められた労働の対象化であり、商品社会においてそれは抽象的人間労働にほかなりません。そして抽象的人間労働としての社会的労働への還元は、ただ物象的形態としての他の商品との価値関係においてのみなされます。この事態抽象によりある商品を生産した労働は抽象的人間労働となり、その商品は抽象的人間労働の対象化として価値となるのです。このように価値は一商品に内的な規定なのですが、それは超感性的な規定であり、価値そのものとしては感性的に存在しません。そこでマルクスはつぎのように価値関係を単に二商品の量的比較の関係から、価値形態の関係として把握すべき必然性を述べたのです。
「商品は、もともと、一つの二重物、使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体なのである。それゆえ、自分をあるがままのものとして表すためには、商品はその形態を二重化しなければならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それは商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態である。ところで、ある商品の、たとえばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。」(S.20)


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