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megumiさんの回答

1:megumiさんの回答
田中 10/18 12:12
労働過程と価値増殖過程という資本制的生産の「経済的形態規定」についてですが、労働の本質的規定として私が述べているのは、「その単純な形態に還元され」た労働過程です。マルクスは『資本論』労働過程論の冒頭で次のように述べています。「使用価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行われることによっては、その一般的な本性を変えはしない。それゆえ、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない。」労働とはそもそも何か、という問いは、このような考察を意味していると思います。
このように把握される労働過程は現実の労働過程ではなく、思考抽象の産物です。マルクスはこのことを「さしあたり」という語で指摘しているのでしょう。megumiさんが引用している文章のなかで「形態規定のこのような消滅が労働過程の内部においてさえも外観に過ぎない」といわれているのは、現実の労働過程がそれ自体社会的・歴史的に規定されているということと理解できます。大工業という機械化された労働過程は資本制においてはじめて成立した、といわれる場合が、労働過程の社会的形態規定でしょう。大工業自体は―その存続が現在では生態系の破壊として根絶されるべきものであるにせよ―非資本制的な社会においてもありうるものです。資本制においては死んだ労働=資本による生きた労働=労働者の支配として、機械に労働者が支配されることとして存在します。それは価値増殖過程としての直接的生産過程によって規定されているのですが、それ自体は労働過程の規定であると、私は理解しています。
つまり労働過程自体に抽象的一般的規定と社会的形態規定という二つの側面があるのではないでしょうか。
私のコメントは商品生産における労働という側面に焦点をあてたがために、価値増殖過程の観点は確かに欠落しています。掲示板の補足のなかで商品生産社会=資本制社会といった以上、この欠落は「流通過程の仮象」に囚われた議論として理解されてもしかたないかもしれません。私の意図としては、できるだけ森さんの土俵にのったうえでの議論を展開したかった、ということです。マルクス的な観点はこっそり密輸入したにとどまるという風にいえるかもしれません。他者の意見を検討する場合、できるだけ内在的な方法をとることが必要でしょう。しかし自らの価値基準というものは拭いがたいものとしてあるがために密輸入せざるをえないのです。
思想史や哲学的観点からマルクスに接近する者の弊害は、やたら「本質的」規定を振りかざし、よって「経済的形態規定」の観点を軽視するところにあるのかもしれません。megumiさんの指摘はいつもそのことを反省させられます。それはひいては実践的問題意識の欠落につながりかねないものとして、常に意識しなければならないのでしょう。




2:Re: megumiさんの回答
megumi 10/19 06:31
「労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。」(資本論五章)

  (以前にまとめたものがありますので掲載させてください。)
私たちの多くは、つぎのローゼンベルグの批判すべき見解(労働過程の要素を分離することで否定)を見落としているのです。
  「すなわち、生産手段は、あらゆる労働過程の要素として観察されている。この労働過程の内部において、それは、生産の質量的要因として人的要因たる労働力に対立しているのである。」(『資本論註解』?P273第七書房)
 労働過程の三要素は、労働・労働対象・労働手段ですが、この三者は融合することでのみ成立しているはずです。草稿では、次のように述べられたことが資本論で省略されているのです。
「過去の労働をその素材的な側面から考察するかぎりではすなわち、ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値について、この使用価値そのものがすでに、自然素材と労働との一つの結合である、という事情が堅持されるかぎりでは、諸使用価値に対象化された過去の具体的労働は、新しい労働を実現するために、あるいは同じことであるが、新しい諸使用価値を形成するために、手段として役立っていると言いうる。」(『資本論草稿集』4P93)

「自然素材と労働との結合」とはなんのことか?
マルクスはこう表していました。「使用価値である上着、リンネルなど、簡単に商品体は、二つの要素の、すなわち自然素材と労働との、結合物である。」(『資本論』1章2節8段落)
歴史的伝統なのか多くの人(ローゼンベルグ)は、ある物の使用価値の規定が「自然素材と労働との、結合物である」ことを全く忘れているけれども、この点こそが大事なのです。「ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値」は、「自然素材と労働との、結合物である」のだからこれら労働過程の三要素は分離しているのでなく融合しているのです。ある労働対象諸条件が労働と分離し・対立しているならばそれは労働過程の要素ではないのです。先ほどの『草稿集』の続きにはこうあります。
「綿花と木材および鉄とが木の形態を、すなわち一方は糸としての形態を、他方は織機としての形態を、すなわちそれらが労働過程でこれらの役立ちを果たすさいの形態を、受け取ったのだということ、それらはこの特定の使用の仕方をそれ以前の労働の媒介によって受け取った―これは、栄養過程で小麦が果たす特定の役立ち、使用の仕方を、小麦はそれ以前の労働の媒介によって受げ取った、という事情とまったく同様である―のだということ、それらは、それ自身がすでに労働と自然素材との一つの結合を表わすものだということ、これである。」 (『資本論草稿集』4P93〜94)
『諸結果』ではこう述べている――「労働過程では・・生産手段の独立な・・それ自身の頭を持っている存在、労働からのその分離は、今では実際に廃棄されている。」(『諸結果』国民文庫P59・資本論綱要岩波文庫P165)
 以上のことは、理論的分析からでしたが、しかし、実際の感性・実践から言えば、労働過程ではそれらの要素が「過去の労働の物質化」であることは何ら関心を引くものではない・・・とマルクスは述べるのです。
「それ自身が使用価値の一定の特殊的な消費過程、使用価値の使用の一つの特殊的独自的な種類にすぎない労働過程においても、関心を引くのは、それ以前の労働の生産物がこの過程のためにもっている諸属性だけであって、これらの生産物の、過去の労働の物質化としての定在ではないのである。なんらかの自然素材が以前の労働によって受け取った諸属性は、いまではそれ自身の物的諸属性であり、その自然素材はこれらの属生をもって働き、あるいは役立つ。これらの属性が以前の労働によって媒介されているということ、この媒介そのものは、生産物のなかでは止揚され、消え去っている。(『資本論草稿集』4P94)
草稿には、B)に引用した『資本論』の、
「この過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、」・・・・と同じことが述べられたのです。実践上からいえば、貨幣の謎に示された――「この一商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品はこの一商品で一般的にそれらの価値を表示するかのように見える」――錯誤以上の人間の無意識的順応が労働過程にはあるのですから、自らの<転倒した意識>への自己批判を忘れてしまう人は、マルクスの示した「労働過程」を「生産的消費」に解消して、生産過程の抽象的な素材的要素である?生産手段(過去の労働の物質化していない対象)と?労働力(この二つの要素では両者の分離は前提されている)の規定へと、労働過程の三要素を転化してしまったのです。

労働過程の要素と生産過程の抽象的要素との混同にたいする批判は、以下の『諸結果』のくだりが上手くまとめています。
「生産過程の諸要素は、土地所有、ナイフ、挟、防水、綿花、穀物、簡単に言えば労働材料と労働手段と、そして――賃労働であると。一方ではわれわれは、労働過程の諸要素とそれらが一定の歴史的発展段階で持つ独自な社会的な諸性格とが混和されたものをあげているのであり、他方では、われわれは、どの特定の社会的形態とも無関係に人間と自然一般との間の永久的な過程としての労働過程に属する一要素を加えているのである。」(『直接的生産過程の諸結果』国民文庫P44『資本論綱要』岩波文庫P151)



3:Re: 労働とは生産的消費
megumi 10/20 06:56
労働とは、それ自体を取り上げた場合には、労働過程を意味するのではなく、生産的消費であるというのが、マルクスのここの主張ではないかと私は考えるのです。

バラ色に描かれる「労働」の捉え方はこうでした。
「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である。人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を自分自身の生活のために使用しえる形態で取得するために、自分の身体に属している自然諸力、腕や足、頭や手を運動させる。人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させるとともに、同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている潜在諸力を発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御に服させる。」(資本論五章労働過程)

ところがマルクスは、果たしてバラ色であるなどとはとんでもないと、否定しているのです。

「ある一つの使用価値が労働過程から生産物として出てくる時、それ以前の労働諸過程の諸生産物である他の諸使用価値が生産諸手段としてこの労働過程に入りこむ。後者の労働の生産物であるその同じ使用価値が、前者の労働の生産手段を形成する。」(同上)

労働対象諸条件は、過程の結果としての「生産物」から見れば、「生産諸手段」であり、「生きた労働の対象的要因として機能するだけ」なのですね。

「したがって、諸生産物は、それらが生産諸手段として新たな労働過程に入りこむことによって生産物という性格を失う。それらはもはや、生きた労働の対象的要因として機能するだけである。紡績工は、紡錘を紡ぐ手段としてのみ取りあつかい、亜麻を紡ぐ対象としてのみ取りあつかう。もちろん人は、紡績材料と紡錘がなくては紡ぐことはできない。それゆえ、これらの生産物が現存していることは、紡績の開始に際して、前提されている。しかし、この過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それはちょうど、パンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の諸労働の生産物であることが栄養行為の場合にどうでもよいのと同じである。逆の場合。もし労働過程において生産諸手段が過去の労働の諸生産物としての性格を表わすならば、そのことは、それらの生産諸手段の欠陥によって明らかにされる。切れないナイフ、切れてばかりいる糸などは、刃物工Aや紡績工Eをまざまざと思い起こされる。優秀な生産物では、その生産物の使用諸属性の、過去の労働による媒介は消えうせている。」(同上)

だから、労働とは、「生産的消費」として現れると述べているのです。

「労働は、それの素材的諸要素、それの対象およびそれの手段を消費し、それらを食いつくすのであり、したがって消費過程である。この生産的消費が個人的消費と区別される点は、後者は諸生産物を生きた個人の生活諸手段として消費し、前者はそれらを労働の生活諸手段、すなわち生きた個人の自己を発現する労働力の生活諸手段として消費する、ということである。」(同上)

そこでローゼンベルグはこう述べたのです。
「すなわち、生産手段は、あらゆる労働過程の要素として観察されている。この労働過程の内部において、それは、生産の質量的要因として人的要因たる労働力に対立しているのである。」(『資本論註解』?P273第七書房)

かれは、「生産的消費」しか見ていないし、それに反発して主体的要素にばかり注目したのが、主体性論というわけですよね。

この「生産的消費」では、経済的形態規定が消失しているというのがマルクスの主張なのです。


4:megumiさんへの再回答(1)
田中 10/20 16:05
megumiさんのコメントは自然物と社会的性質=物象との統一として生産過程を把握すべきであり、「労働過程と価値増殖過程の対比と統一」として把握しなければならない、とういうことだと理解しています。そして等価形態にある商品は「ただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ」ことと同様に、資本制的生産過程においても労働過程は、ただ価値増殖過程としてのみ意義をもつ、このように主張されているようです。しかし商品と生産過程では自然物と社会的質の対立と統一は、異なった様式なのではないでしょうか。
 megumiさんが指摘しているように、価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され」ます。等価形態にある商品の現物形態は、相対的価値形態にある商品の「価値姿態または価値形態」であり、商品における使用価値と価値との内的対立は、二つの商品へと外化しています。
 これに対して直接的生産過程においては、労働過程と価値増殖過程は二つの自立した過程の関係として、外的対立の形態をとるわけではありません。したがって等価形態のような社会的質としてのみ意義をもつものとして労働過程を把握するのは不十分ではないでしょうか。一商品における使用価値と価値とを別々に考察できるように、労働過程と価値増殖過程は区別して考察すことが可能ではないでしょうか。もちろん区別することは両者を無関係なものとして把握することを意味しません。前回のコメントでも触れたように、一般的形態における労働過程とは思考抽象の産物であり、現実の労働過程は社会的形態規定をともなっています。資本制においては価値増殖過程としてそれは規定されており、資本制における労働過程は価値増殖過程によって規定されています。
 その一方で社会的質が自然物に担われる場合に、その自然的質がある種の規定性を与えることが考えられます。貨幣とは社会的質に他なりませんが、それがどの商品によって担われるかは、商品の使用価値が大きく影響しているのです。「価値の適切な現象形態、または抽象的な、それゆえ同等な、人間的労働の物質化となりうるのは、どの一片をとってみてもみな同じ均等な質をもっている物質だけである。」(『資本論』s.104)社会的質と自然物との関係は一方的な規定関係ではなく、相互的な関係にあるものとしても把握する必要があるのではないでしょうか。いいかえれば社会的形態規定とその担い手としての自然的素材内容とは一つの対概念として考えられると思います。もちろん社会的形態規定が素材内容を規定することを忘れてはなりません。大工業が資本制によってはじめて発展した、という場合がそれです。社会的形態の発展のより素材内容が発展し、さらに新たな社会的形態が発生する。資本制という社会的形態規定のもとで発展した生産様式が協同社会の物質的条件を準備しているという観点は、以上のような理解から導き出されていると思われます。
 


5:Re: 文化知の発端
megumi 10/21 10:28
田中さんは「再回答1」でこう述べてました。
「megumiさんが指摘しているように、価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され」ます。」

わたしは、
>ところが、上記のように、「商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ」のですね。
・・とのべています。
>上記のように・・・・・・の意味が何を指しているのか?もう一度検討してみます。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。」(「簡単な価値形態の総体」)

次の部分のことですね。
「・・・この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。」

商品Aの現物形態と、商品Bの現物形態とが対比されています。同じ現物形態であるにもかかわらず、商品Aは、使用価値の姿態を、商品Bは価値形態または価値姿態として両極で、異なった「意義を持」つ・・・・のです。「商品Aの価値表現」には、補足があり、「この価値表現の内部では」とされています。商品の<価値関係>ではの意味です。この価値関係のなかでは、現物形態・商品Aと商品Bが、自然的形態と価値形態の対立した形態として規定されることが述べられています。

(註「上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」の後の「キリスト教徒の羊的性質」の節でこう述べられています。
「こうして、上着がリンネルの等価となる価値関係の中では、上着形態が価値形態として通用する。したがって、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表現される。一商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるのである。」)

以上から、「価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、」という田中さんの理解は当を得ていないと思うのです。商品形態ということであれば了解できます。

次に移ります。
「等価形態にある商品の現物形態は、相対的価値形態にある商品の「価値姿態または価値形態」であり、商品における使用価値と価値との内的対立は、二つの商品へと外化しています。」(田中さんの「再回答1」)

「等価形態にある商品の現物形態は、相対的価値形態にある商品の「価値姿態または価値形態」であり、」について。

等価形態上着は、直接交換可能な使用価値という規定を、自身の等価物としての役立ちにおいて受け取っていますから、<リンネル>の価値姿態・価値形態ではありません。それ自身で価値形態・価値姿態なのです。リンネルの相対的価値表現として、量的比率たる価値表現はしています。ところが、「この商品は、他の商品の価値表現に材料を提供するだけである」と述べられたことは、私が述べた「等価物上着の役立ち」のことなのです。反省規定・価値鏡の役立ちの意味なのです。価値関係にある商品の右極は、等価物の役立ちを果すことで、(勿論リンネル有りてですが)「価値形態」と、価値関係の概念的作用から語れているのです。

次の節の解釈ですね。
「リンネルの価値関係の中で、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、すなわち同じ性質の物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめるその現物形態で価値を表す物として、通用する。ところで、上着は、すなわち上着商品の身体は、たしかに単なる一使用価値である。上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは、ただ次のことを示すだけである。すなわち、上着はリンネルに対する価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということである。ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。
上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。」(資本論3節)

大切なのは次のところです。
「しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。」

さてこうにも述べています。

「したがって、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる(18)。商品Aが価値体としての、人間労働の物質化としての、商品Bに関係することによって、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値という形態をもつ。
(18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。」(同上)

「価値関係の媒介によって、」使用価値Bは、その姿のままに、価値の現象形態になるのです。

私は以上のように価値形態を理解しています。なんとも得て勝手な性格で、独学ですから、ハズレ!解釈もあろうかと思います。榎原さんを始め諸先輩、そして田中さんの批判をお願いします。まず、文化知の理解の発端こそが問題なのですから、ここから論争を進めていきましょう。お願いします。


6:Re: 文化知の発端
田中 10/21 15:01
(1)商品形態について
「以上から、「価値形態においては「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、」という田中さんの理解は当を得ていないと思うのです。商品形態ということであれば了解できます。」
この指摘は、私の文章の書き方が原因でしょう。「価値形態においては」という語は、真ん中の文節、「外的対立・・・」へかけているのです。つまり、商品における使用価値と価値との内的対立は、価値形態においては使用価値姿態としての相対的価値形態と価値姿態としての等価形態という両極という形で、外的対立へと転化している、ということが言いたかったのです。

(2)等価形態の役立ちについて
「等価形態上着は、直接交換可能な使用価値という規定を、自身の等価物としての役立ちにおいて受け取っていますから、<リンネル>の価値姿態・価値形態ではありません。それ自身で価値形態・価値姿態なのです。」
価値形態とは価値関係すなわち商品A(リンネル)=商品B(上着)において、二つの商品が受けとる社会的形態規定のこととして理解できます。このとき関係の主体はリンネルであるということの理解が決定的に重要です。リンネルが上着を自分に等置することにより価値関係が成立するのです。この等置によってはじめて、上着はリンネルと同等のものとして抽象され価値そのものという意味での価値姿態=等価形態をうけとるのです。そしてその規定がリンネルへと反射=還帰してリンネルも価値であることが示されるのです。
上着はその現物形態において価値姿態である、という意味では「それ自身」価値姿態ではあるのですが、それはリンネルによる関係付けの内部でのことです。そしてこの関係においてはリンネルの価値表現が主題であるがゆえに、リンネル価値の表現という意味で、リンネルの価値姿態・価値形態なのです。
等価形態が特定の商品の価値姿態ではなく、一般的に価値そのものの体現者となるのは一般的価値形態においてでしょう。しかしその場合でも自分以外の他の商品との関係があくまでも前提であることを忘れてはならないと思います。megumiさんもこの点は十分理解していると思いますが、上の表現は、リンネルとの価値関係という簡単な価値形態を超えて、上着が一般的等価形態としてとらえているように読めます。


7:Re: 文化知の発端3
megumi 10/23 06:18
>リンネル価値の表現という意味で、リンネルの価値姿態・価値形態なのです。

田中さん、いかにもリンネルが価値表現の主体ですね。
次の初版の記述にも、貴方と私の理解の対立が述べられていました。

「亜麻布は価値としての上着に、または受肉した人間労働としての上着に関係する時には必ず、人間労働の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する。

しかし、〔これまでに確認されたように〕亜麻布が使用価値としての上着に魅力を
感じるのは、その毛のふさふさした快適な着心地のためでもなければ、ボタンをかけた立派な恰好のためでもなく、使用価値としての上着に属するその他の有用な性質のためでもない。亜麻布にとっての上着とは、糊のきいた使用対象である亜麻布自身とは別の対象の中で亜麻布の価値を表現するものでしかないのである。」(牧野訳『対訳初版資本論1章P39』)

リカードのように、相対的価値表現の理解で止まるならば、「亜麻布は、・・人間労働の直接実現される形式としての仕立て作業に関係する」ことを示されても困惑するのみです。

マルクスは、そこでこう述べたのです。
「我々は〔いま〕ここに、価値の形式の理解を妨げているすべての難問の出てくる原点に立っている。」・・・と
そして、
「商品の価値をその使用価値から区別することは割合やさしい。あるいは、使用価値を形成する労働を、商品の価値の中でただ人間労働力の支出とみなされる限りでの労働から区別することは、比較的容易である。〔というのは〕商品や労働が一方の形式で考察されている時は、他方の形式では考察されていないのであって、逆の場合も又そう〔だから〕である。〔そして〕対立のこの抽象的な二側面は自ずから分離するので、別々に捉えることは容易〔だから〕である。

〔しかし〕商品と商品との関係の中にしか現れない価値の形式については、そう〔簡単に〕はいかない。使用価値または商品体はここでは新しい役割を果たしている。〔即ち〕それは商品の価値の現象する形式となり、かくして自己目身の反対物の現象形式になるのである。まったく同様に、使用価値の中に含まれている具体的で有用な労働も自己自身の反対物になる。即ち、単なる抽象的な人間労働の実現される形式にすぎないものとなる。
商品の互いに対立しあっている二つの規定は、ここでは、互いに離れ離れになるのではなく反省しあっている。」(同P39〜40)
と述べたのです。ここに「価値形態の秘密」があるのですね。



8:Re: 文化知の発端3
田中 10/23 14:27
megumiさん、申し訳ありませんが、回答をしばらく待ってください。もう一度価値論を読み直して、私も文献考証的に回答したいのです。いまのところまだ自分の見解を改める必要を感じてませんが、文献的に確認したいと思います。
はずかしながら前回の議論の焦点をようやく理解しました。「等価形態の役立ち」やリカード的な「相対的価値表現」という論点を、自分とmegumiさんとの違いとして、いま一つ理解しきれていなかったのです。前回の議論をもう一度確認したいと思います。
ここでは確認の方向性だけを提示したいと思います。私としてはリンネルが相対的価値形態として規定されていること、さらにリンネルの上着価値という用語にこだわっています。このような理解によって、価値形態の発展の根拠が示されるような気がしています。
得て勝手な性格においては私も負けていないかもしれません。しかし自分の見解を妥協することなく展開してはじめて相互理解が成立すると思っています。それは相手の見解を深く理解するためにも必要なのでしょう。前回の私は、この点が不十分だったと反省しています。まさに反省は他者との関係において成立することを痛感したしだいです。
最後に一つだけお願いがあります。他の読者の方にも意見を提供していただくとありがたいのです。実践的関心から遊離した空論だとか、価値形態論はそうではなくこうだ、とか何でもかまいませんので、お願いします。


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