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「カント研究序説」を読んで

1:「カント研究序説」を読んで
田中 08/18 17:08
 「カント研究序説」は科学的世界観を批判し、文化知を確立する一環として書かれています。それは「カントの根本思想」として超越論的仮象論を批判的に検討し、それを文化知の前提としての「存在の様式と思考の論理の絶対的他者性の承認」へと止揚するものです。この論文については石井さんと榎原さんとの間で論争がすでにあり、似たような内容になるかもしれませんが、私なりの疑問点を提出したいと思います。
 榎原さんによれば従来の科学的世界観は「思惟と存在の同一性」を真理とするものでした。それに対して、「カントは純粋理性批判で、人間の認識は、人間の思考のうちに与えられている主観的なものとしての現象を、理性の法則によって綜合的に組み立てることでもたらされるのですが、この認識が客観的な物自体の属性という誰にとっても避け難い仮象をとることを批判の中心に据えていました」。この「主観的なものとしての現象」は単なる主観の想像物ではなく「外的な物に関する我々の表象には、外的な物としての現実的対象が対応するということを承認する」、つまり物自体に現象を発生させる根拠があるというものです。
 また自然法則についても「法則は(反省的判断力に基づくー田中)思考産物であって、自然そのものの法則ではない」、つまり自然法則も仮象だということです。当然この仮象もまた物自体としての自然が「現実的対象として対応する」のでしょうが、自然自体が法則にしたがって運動しているわけではなく、主観がそのようなものとして整理しているというような意味だと受けとりました。
 私が疑問に思うのは、カントがこのように物自体に現象を触発する作用があるのならば、主観的なものとしてある認識の内容は、物の属性として規定することがなぜできないのか、という点です。私はカントの物自体を物の総体性という意味で解釈していました。人間はある自然物をそのものとして認識することはできないが、その一部分を認識しうるのではないでしょうか。「思惟と存在の同一性」としての真理を絶対的な真理ではなく、相対的な真理という意味で用いることは可能ではないでしょうか。カントいうところの「現実的対象として対応する」とは、これ以外にどのようなものが考えられるのでしょうか。
 


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