。ヲ office-ebara
小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

11:Re: Re価値関係とは概念的存在の表現
田中 02/20 11:14
〈「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。〉
megumiさんもご承知のように、マルクスは価値形態論とならんで、自らの発見あるいは独自性として労働の二重性の把握をあげています。古典派は価値の実体としての労働を把握しながらも、経験論的観点の限界ゆえに、価値実体の抽象性を明確にできなかったのです。社会的必要労働時間の概念をリカードは持っていたにもかかわらず、それを直接的な投下労働時間としてしか把握できなかったのは、「蒸留法」としての理論的抽象すら明確になされていないからでした。複雑労働の単純労働への還元は把握していたにも関わらず。
ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
商品生産社会に固有な労働の社会的性格としての諸労働の抽象的同一性である抽象的人間労働を超歴史的概念として把握するのも、同じ理由からでしょう。そのような理解は、物象としての商品の交換関係としてしか労働の社会的関係が存在しえないことの無理解に原因があると思います。つまり物象関係の背後には本質としての人々の社会的関係が存在すると考えているのです。社会的平均化は交換関係でしかなしえないことが理解されないのも、同様です。社会的平均化を抽象的人間労働への還元として理解するならば、価値形態論における回り道とは物象的関係としてのみ労働の社会的性格が成立するその仕方を解明したものといえるのではないでしょうか。
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。では相違はどこにあるのでしょうか。私が思うにそれは抽象的人間労働の量的規定に具体的有用労働のそれをリンクさせて考えるべきか否か、という点だと思います。社会的必要労働時間あるいは社会的生産性とは、ある一商品において問題となるものであり、他の商品の社会的生産性とは区別されるべき問題です。商品の種類あるいは区別とは、やはり使用価値の相違であると私は思います。
この問題を単なる生理学的支出としての側面から考えてみたのが、前々回の投稿文なのです。複雑労働の単純労働の還元の問題は、具体的有用労働の種別の問題であるのです。異なる具体的有用労働を質的に同一化し、さらに判断として量的比較を成立させるためには、単なる生理学的支出としての質および量への還元が必要なのです。具体的有用労働における消費カロリー単位での同一化と比較、価値実体と有用労働との関連とは、以上のような問題ではないかと、私は考えています。
私が関連にこだわるのは、協同社会における労働時間に基づく生産の計画、財の構成員への分配という場合の労働時間とはどのようなものとして考えるべきか、という問題を意識しているからです。この問題を価値実体としての抽象性をいかに具体性へと回復させるのか、問題の立て方が正当かどうかを含めて、今後詳細に考えてみたいと思います。


12:Re: 複雑労働の単純労働への還元
megumi 02/22 02:03
田中さん、次のは旧戦旗派に属して、宇野経済学に依拠した人物の<交換価値から還元される共通者>の理解を示した、典型例です。

 「およそすべての商品は、具体的効用である「使用価値」と、他の諸商品との交換比率を表わす「交換価値」とをもっている。この交換価値を貨幣で評価したものが「価格」である。
 ところで、まったく性質のちがう諸商品が交換されあう時、この商品の両者に、質的に同じで量的に比較可能なものがなければ、両者の交換比率は決定されえない。それが商品の「価値」と呼ぱれるもののことである。そしてその商品の価値の大きさは、その商品の生産に、直接・間接に要した社会的必要労働時間によって決定される。このことを「価値法則」という。」
マルクス『賃労働と資本』学習ノート
草加耕助 f(^^;) 「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)より
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=76)

ここには、「価値抽象」の理解しかありませんし、交換比率から共通者価値を求めるカウツキー理論の普遍的継承があります。しかし、草加耕助氏の論文でわかるように、ここには、新左翼・宇野経を学んだ人々が、スターリン経済学との雑炊に頭がかき回されていることの証明ではあります。

価値抽象と、事実上の抽象とを分ける榎原さんの理論的抽象批判としての文化知の決定的意義の普遍化がとても大切です。

複雑労働の単純労働への還元は、二つの抽象のどちらに属することでしょうか?
事実上の抽象に属することですか?経済的形態規定に属するのですか?
それとも人間的労働力一般の実現形態から反照される・反省規定を受け取る(回り道を経ての)労働(抽象的人間労働)に属することでしょうか?

複雑労働の単純労働への還元は、社会的必要労働時間の単位となる社会的平均労働力の規定の仕方にかかっている。
それは、社会的実体である人間的労働力一般の支出での個人的労働力の規定であったのだから、共同体での共同主体的な人的労働力の支出とは異なることが前提された規定であり、量的存在としての交換価値から還元される共通者としての社会的実体であったのだから、労働生産物の具体的姿態の全てを捨象(抽象ではない)した意味での、価値実体・人間的労働力一般の支出であったのです。

ところが宇野は、社会的実体を「労働・生産過程」とする理解から、個人的労働力の社会的平均労働力としての単位での支出を(私的労働に他ならない)、すでに、社会的実体であるからと、「労働時間もまた社会的労働として計量されねばならない」(『資本論の復権』P127からの孫引き)としたのですね。社会的平均労働力の規定は、「現存の社会的・標準的な生産条件と労働の熟練及び強度の社会的平均度」からもたらされるも、労働過程が社会的結合をしている共同体ではないのだから、私的労働でしかないのでした。(『復権』に、「宇野の場合、価値の実体を生きた労働に求めたが故に「労働=生産過程」を実体化しこれを社会的実体へと祭り上げ・・・」同P181とある。)

この 宇野流社会的実体の理解は、ローゼンベルグの社会的実体の批判としてあったのではないか?
「交換価値としてはこれらの商品は単に労働生産物であるに過ぎぬ。」(『資本論註解』?P107)
使用価値の量的比率としての交換価値から還元される実体が、「労働生産物」なのですから、生産過程での流動している生きた労働・人間的労働力の支出が、ローゼンベルグにとっては、価値実体なのですが、その先を読んだ宇野にとっては<生産過程が社会的実体>であると主張しているように見えたのだと思うのです。

このような宇野さんの労働過程での人間的労働力の支出の表象が、具体的労働を抽象(捨象や還元ではない)した生きた労働にあるのであれば、社会的必要労働の単位が、共同体的な社会的実体による労働力の支出なのか?資本制的な社会的総労働力の個人的な平均労働力の支出なのか?の相違は、問題にされないのではないかな?価値関係が使用価値の量的側面の関連としか意識されず、質的側面の関連は意識外に追いやられてしまうのですね。(後日の訂正を加えてあります。)

さて、<複雑労働の単純労働への還元は>それぞれの具体的労働を抽象したものとの意見をもつのであれば、価値とは、社会的単位でなく、使用価値の物的属性(表示される労働の二重性は混同されますね)であり、商品関係とは、物と物との関係の超歴史的な究極完成された社会関係となるのですね・・・・・・


13:Re: 複雑労働の単純労働への還元
名無しさん 02/26 10:41
〈複雑労働の単純労働への還元は、二つの抽象のどちらに属することでしょうか?
事実上の抽象に属することですか?経済的形態規定に属するのですか?
それとも人間的労働力一般の実現形態から反照される・反省規定を受け取る(回り道を経ての)労働(抽象的人間労働)に属することでしょうか?〉
理論的抽象を用いて価値実体を導出している1、2節では、還元は理論的なものにとどまります。抽象の具体的メカニズム―これこそが事態抽象としての回り道なのですが―を解明している3節価値形態論においてはじめて事態抽象であることが把握されると私は解釈しています。ただ理論的抽象とはいっても、交換関係の内部で現れる結果からの抽象であるので、事態抽象の結果としての還元の直観的把握であるといえます。そのかぎりで超歴史的概念として1,2節での抽象的人間労働を把握する解釈は誤っています。
事態抽象では複雑労働の単純労働への還元としての社会的平均労働力への還元が行われると同時に、生産条件の社会的平均水準への還元も行われるのです。社会的必要労働を規定する要因は、労働過程としてみた生産過程の二つの契機=生産手段と生産的労働に対応した二要因であると解釈しています。
「社会的に必要な労働時間とは、(1)現存の社会的・標準的な生産諸条件と、(2)労働の熟練および強度の社会的平均度をもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。」(p.66)
(1)は同一の商品生産部門内の平均化ですが、(2)は同一部門の平均化をさらに尺度としての単純労働への還元を意味しています。そうでなければ価値実体としての労働ではなく、したがって価値量を規定する労働たりえないからです。
抽象的人間労働が具体的有用労働と何らかの関連を持ったものでなければ、生産条件の変化が価値量に影響することはできないのではないでしょうか。生産条件の変化は、労働力の平均的存在が不変であれば、尺度としての抽象的人間労働に影響は与えません。一時間当たりxキロカロリーの生理学的主出を抽象的人間労働の一時間とする、といったような形での還元は、それが具体的有用性を捨象したものであること、つまり生産条件との関係抜きに規定された単なる人間的労働力の支出であるため、生産条件の変化の影響は受けません。しかしそれがある商品の価値量を規定するさいには、その商品に含まれる価値実体量は変化します。今まで二時間で作れたものが一時間で作れるという事態を考えてみましょう。当然のことながら、労働時間の変化はまず具体的有用労働時間の変化として現れます。労働の社会的平均度、すなわち尺度単位としての労働力が変化しないとすると、生理学的支出量は有用労働一時間あたりでは変化しません。しかしその一時間が生産する商品は半分になるので、一商品あたりの抽象的人間労働量は半減し、価値も半減します。
このように具体的労働と抽象的人間労働との関連を考えなければ、価値論は理解できないと思います。
megumiさんは社会的平均という作用をどのようなものとして考えているのでしょうか。平均の元となる数量はどのような量なのでしょうか。抽象的人間労働自体が平均化の産物であるとするならば、平均の元に抽象的人間労働を考えることはできないのではないか、このように私は考える次第です。


14:Re: 共通認識
 02/27 03:19
ちょと後戻りします。
田中さんの主張
>ではなぜ労働の二重性を把握できなかったのか。さらにいえば、なぜ古典派には価値形態論がなかったのか。それは私的労働と社会的労働との矛盾・対立を社会的分業から展開できなかったからではないでしょうか。私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態としての価値という概念がなく、単なる量的比率である交換価値という現象形態にとどまったのもそれゆえでしょう。
・・・・・・・・略・・・・・・・・・
以上のことはわれわれの共通認識だと思います。

田中さん残念ながら、これらの主張には、
>われわれの共通認識
はありません。
>私的労働を社会的労働へと転化させる必然的形態
とは?「価値」でなく、価値形態であり、等価物である使用価値上着をへての回り道だからです。価値形態・使用価値の二重の商品形態とは、価値関係の質的側面であり、価値形態の秘密としての使用価値が価値の現象形態に反照(反省)させての、両極での規定としての価値・使用価値の現れであるからです。反省規定としての超感性的な価値形態なのですから、等価物上着をその姿態のままに使用価値であるとみる<価値関係を使用価値の関連>――とする見解には、この「反照」への文字どおり反省が無く、物象の社会関係への理解はありません。

どうだったでしょうか?使用価値リンネルには使用価値上着が等置されましたか?
使用価値リンネルには「価値物」上着が等置されました。使用価値・価値物の関連が与えられるからこそ、等価物上着の等置であり、価値形態上着の規定の現出でありました。相対的価値形態の対極にある等価形態上着は、直接的交換可能性が与えられているのですから、上着の自然的属性が価値でありと見えますが、そうでなく、等価形態の謎性に惑わされたからでしたね。価値関係とは概念的存在なのですから、超感性的な価値形態上着の規定がなければ、商品は互いに価値関連し得ないのですね。価値関係の質的側面への理解は、リカード・ベイリー論争への総括が必要ですね。どうか、田中さんも草稿集の7巻P184以降P249を参照願います。


15:使用価値と交換価値
megumi 02/29 04:02
田中さん
交換過程で商品が、使用価値と交換価値の二つの姿態を持つというのは、具体的な現象ですが、価値形態と使用価値の二重の姿態を持つのは、価値関係が概念的存在を立証することでの分析の結果でありました。

「価値形態が概念的存在」であると榎原さんは次の二つの論文で強調していました。

もう一つの社会変革の可能性
(続)支配的文化のルーツ

 そこで価値形態の話になるんですが、2時間はかかる話を1分間にちぢめてしまいます。ポイントを言いますと、商品とか貨幣とか資本を単なる物ではなく物象という場合、それはその存在そのものが概念的存在である、ということです。概念的存在ということの意味ですが、それは人がこれらの物に自分の意志を宿すことができる、ということです。人がある判断、こういう時にはこうであるという判断をするとき、もちろん自分の頭で考えて自分で判断するわけですが、商品、貨幣、資本が登場してきますと、その判断を人は相手にあずけているんですね。自分の意志を相手にあずけている。もちろん自分の頭は使っているんですが、その判断の内容が相手によって規制されている、そういう関係なんですね。この関係が支配的文化のルーツにあり、ブルジョア文化の特性を形づくっていると思います。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=6

根源的他者と価値形態論

 ここではこれまでの批評との関連で、形態規定について考察してみよう。なお、当然のことながら、ここでの議論は、自著で明らかにした諸論点を前提にしている。
 価値形態が概念的存在であり、一つの思考形態であるにもかかわらず、思考と同一の規範をもたず、双方の間には根源的な他者性が見いだされること、このことが明らかにされると、思考にとっての問題は、この他者が一つの思考形態であることを了解することである。
 マルクスの価値形態論の従来の解釈は、このような問題が存在することに気づかず、他者である価値形態に思考の論理をもち込むことによって、自らの思考を混乱させてきたのであった。

・・・・略・・・・
このような事業は、思考にとっての根源的他者たる思考形態の存在を認めないがゆえにブルジョア文化と科学、及び哲学によってはなしとげられない。そして、この根源的他者を認めるところから、ブルジョア的な知の自己否定がはじまる。
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection06/article.php?articleid=14


田中さん、人間の思考形態と、価値形態の思考形態との相違を認める・総括することが求められていると思うのです。

それが理論的抽象と事実上の抽象の相違として、価値形態論でまとめられていると思うのです。
商品の交換過程では、諸商品は、異なる使用価値の関連として現れてきます。しかし、使用価値と非使用価値つまり、自分にとっては使用価値で無く他人のための使用価値の関連ですね。
「使用価値としての諸商品相互のこのような過程的関係においては、諸商品は何ら新しい経済的形態的規定性を受けない。」(『経済学批判』国民文庫P45)

この困難の解決が、「等価物」の規定なのですね。

経済学批判でのこの展開と、草稿でのリカード・ベイリー論争を経ての資本論での<等価物上着の役立ち>を明示した価値形態論という概括ができるのではないか・・・・と思うのです。
しかし、このようにマルクスの歩みを辿ることができれば、『経済学批判』の記述でのマルクスの苦闘には頭が下がります。


16:Re: 使用価値と交換価値
田中 03/01 09:29
(1)「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」(新日本新書『資本論』1、p.62〜63)

(2)カウツキーなどの解釈では「交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

(3)「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

megumi さんは交換価値概念を二重化して考えているようですね。諸商品の量的比率としての交換価値とは使用価値の側面を捨象したものではありません。使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。
 私はこの「一つの等しいもの」は価値であり、同時に抽象的人間労働であると考えています。対象的形態としてとらえるならば価値であり、その実体としての、あるいは活動的形態としてとらえるならば抽象的人間労働であると解釈します。マルクスの叙述にも次のように記されています。

(4)「諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現われた。そこで、労働諸生産物の使用価値を現実に捨象すれば、いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表わしている共通物とは、商品の価値である。」(『資本論』p.65)

megumiさんの解釈は(1)における「第一に」文章と「第二に」文章のあいだにある「しかし」という訳語を厳密に解釈していることだと思います。この「しかし」は原語は確かにaberだと思いますが、榎原さんの引用における長谷部訳では「ところで」となっているようです。「ところで」という訳は不正確でしょう。別に話題を転換しているわけではないからです。私は「そして」と訳したいと思います。前文が否定文の場合であれば妥当する訳でしょうが、前文が否定文でないので、かなり強引だとは思います。しかし(4)などをみれば「一つの等しいもの」と「それとは区別されうるある内実」とはおなじ事柄を指していると考えられます。そのような文脈理解の下でわたしは「そして」と訳したいのです。
初版だけではなくフランス語版にも(1)の後半部分―「第一に」以下の部分―が存在しないというのは、マルクスがaberの誤解をさけるための措置だったのではないか、このようにマルクスの意図を斟酌すべきでは、というのはあまりにも穿った見方でしょうか。
現在草稿集のベイリー批判を検討中ですが、わたしはその本質は(1)に凝縮されていると思っています。したがって私とmegumiさんのわかれめは以上の点にあるのではと思い、瑣末な事柄ではありますが、提起させていただきました。
また、さまざまな使用価値で表現される交換価値がひとつの交換価値として表わされるというのは、一般的等価形態のことであり、価値実体論の段階では想定しえないのではないでしょうか。


17:Re:諸交換価値と交換価値
 03/01 20:07
田中さん
>このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。

わたしは、
>「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」
と書いたとおりに理解しています。
>「一つの等しいもの」・・・・とは、
>その共通者としての同等な人間労働に還元され、
と述べています。

田中さんの述べる
>使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。

わたしは、商品形態である使用価値と交換価値の二重の姿態・・・の交換価値は、価値の現象形態であるので、使用価値の質的関係とは無縁なものであり、交換比率とはみなせないかと思います。

次のところの理解ですね。

簡単な価値形態の全体
「一商品の簡単な価値形態は、種類を異にする一商品に対するその商品の価値関係のうちに、あるいはそれとの交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される。それは、量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、「交換価値」としてのそれの表示によって、独立に表現されている。この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。」(四版原P74〜75 )

私の解釈が、この「質的」なことばかりを意味しているのではないかということかと思います。
「量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される。」
ここが、田中さんには量的比率であると主張されるのでしょうか?
「量的には、一定量の商品B」であり、量的なおおいさをのみ示すX量の商品Bであり、価値の現象形態としてのみ意味をもつ存在です。使用価値は捨象されて物質的基体としてのみ意味をもつ商品体Bであり、けっして「諸交換価値」ではありません。
 私はそのように考えています。

『初版』付録に次のような記述もありました。

§5商品の価値表現の単純な形式は、その商品の中に含まれている使用価値と交換価値との両対立物の現象する単純な形式である。

亜麻布の上着に対する価値関係の中では、亜麻布の生来の形式はただ使用価値の現象形態として働くだけであり、上着の生来の形式はただ価値の形式として、あるいは交換価値の現象形態として働くだけである。従って、商品の中に含まれている使用価値と価値という内なる対立は、外なる対立となって現れる。つまり、二つの商品の関係として表現される。その時、一方〔の商品〕は直接的には使用価値として働くだけであり、他方〔の商品〕は直接的には交換価値として働くだけである。あるいは、この二つの商品の関係の中では、使用価値と交換価値という二つの対立する規定が〔二つの〕商品のそれぞれに対極的に〔別々に〕割り当てられるのである。

私が「商品としての亜麻布は使用価値及び交換価値である」と言うとすると、それは商品〔亜麻布〕についての私の判断であり、それは〔認識主観による〕分析によって得られたものである。

しかし、20エレの亜麻布は1着の上着に等しいとか、20エレの亜麻布は1着の上着に値するといった表現の中では、?亜麻布が使用価値(亜麻布)である.こと、?亜麻布は使用価値とは区別された交換価値(上着に等しいもの)であること、そして?亜麻布はこの二つの異なるものの統一であり、商品であることを、亜麻布自身が語っているのである。(『対訳・初版資本論第一章・及び付録』牧野訳P116〜117)


価値実体を廻る論争としては、『資本論の復権』P167で、
第3者を抽象的人間労働としていますし、
或る内実を価値として区別しています。

この第二章、三章がこの問題をめぐるもので、榎原さんが、<俺の良い仕事>と自慢するものではないでしょうか。

その三章末尾近くに、
「価値と価値実体を混同することが、日共系学者や、反日共系の学者を問わず「通説」になってしまっているが・・・」
との記述もあります。『資本論の復権』第二章、三章をぜひ検討され、榎原さんに注文をつけてください。理解を得ているのが私などの少数者なのですから、(宇野経は自説の再検討などしない)何か欠点があるはずです。是非とも文句をつけてください。貴方の文句について私も考えますので・・・
田中さん、『資本論草稿集』7のベイリー・リカード論争へのマルクスの肉迫は、驚嘆しますよね。
次のページも開いてみてください。
http://www.freeml.com/yaponesia/5?sid=cc3dced341177d7bf1c9a73a92777c55


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