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非物質的労働と価値法則  田中一弘

1:非物質的労働と価値法則  田中一弘
ebara 09/21 20:01
非物質的労働と価値法則

                       田中一弘
 榎原さんのランシエール論に触発される形で、現在政治について勉強しています。そこでやはり一度はネグリをきちんと評価しなければならないと思い、訳書を読んでいるところです。そのなかで労働価値説に関する疑問が生じましたので、榎原さん、megumiさんはじめ、当ホームページの読者のみなさんにうかがいたいと思います。
 ネグリの現代資本主義分析におけるキーワードの一つして、「非物質的労働」のヘゲモニーというのがあります。ネグリはそれを労働価値説を否定するものとして捉えています。
 「われわれは、現在、非物質的労働がヘゲモニーを握りつつある状況(『非物質的』とは、知的・科学的・認知的・関係的・コミュニケーション的・情動的などのこと)に面していて、この状況は、生産様式や価値化の過程をますます深く特徴づけようとしている。この労働形態が、新たな蓄積と搾取の形態に全面的に従属させられていることは明らかである。この新たな形態は、もはや古典的な労働価値の法則によっては解明することができない。一例を挙げると、労働価値説は、生産のために費やされる時間にしたがって労働を計算するというものだが、たとえば認知的労働は、このやり方では計算することができない。認知的労働は、時間という尺度をはみ出す性質、いわばその過剰性に特徴があると言ってもいいものである。認知的労働は、ある生産的関係によって生の時間と結びついている。認知的労働は、逆に、生の時間を変化させることによって、そこから養分を摂取する。認知的労働の生産品は、自由と想像力の生産品である。認知的労働を特徴づける過剰性は、まさにこの創造性である。」(『さらば、“近代民主主義”』p.32)
 訳注によれば、認知的労働とは「知識・情報・コミュニケーション・金融を扱う労働。」(『さらば、“近代民主主義”』p.33)とのことです。従来の経済学的用語を使うならば、第三次産業労働、あるいはサービス労働ということになると思います。価値形態論の方法を文化知として提起している榎原さんに学んでいるものとしては、このようなネグリの価値法則の否定は批判すべきものだと思います。しかし、どのようにしてなのか?これがいま一つ判然としないのです。マルクスの商品論は物的対象としての労働生産物の商品形態を取り扱っているのみで、いわゆるサービス労働については考慮の外にあるからです。『剰余価値学説史』あるいは『直接的生産過程の諸結果』には資本家の個人的な収入と交換されるサービスに関する記述はあるようなのですが、産業として組織されたものとしてのサービス労働についてはないようです。ただ資本論第二巻に流通費の考察という形で、非物質的労働のひとつである流通労働が分析されています。そこでの結論は次のようなものでした。

 「どんな事情のもとでも、この〈商品の貨幣への転換の―田中〉ために費やされる時間は、転換される価値にはなにもつけ加えない流通費である。それは、価値を商品形態から貨幣形態に移すために必要な費用である。」〈全集版資本論?、p.162〜3〉

 「分業、すなわちある一つの機能の独立化は、もしその機能がそれ自体として生産物を形成し価値を形成するものでないならば、つまり独立化されるまえからすでにそういうものでないならば、その機能をこのようのものにするものではない。」(全集版資本論?、p.165)

 「在庫形成が流通の停滞であるかぎり、そのために必要となる費用は商品には少しも価値をつけ加えないのである。」(全集版資本論?、p.178)

 「商品在庫が在庫の商品形態でしかないものであって、この在庫は、もしそれが商品在庫として存在しないならば、社会的生産の与えられた規模の上で生産用在庫(潜在的な生産財源)なり消費財源(消費手段の予備)なりとして存在するはずだというかぎりでは、ざいこの維持に必要な費用、したがって在庫形成の費用―すなわち在庫形成に費やされる対象化されている労働または生きている労働―も、ただ社会的生産財源なり社会的消費財源なりの維持費が転化したものでしかないのである。この費用によってひき起こされる商品価値の引き上げは、この費用をただ按分比例的にいろいろな商品に割り当てるだけである。というのは、この費用は商品の種類によって違っているからである。在庫形成の費用は、たとえ在庫形成が社会的富の一つの存在条件であっても、やはり社会的な富からの控除なのである。」(全集版資本論?、p.180〜1)

 このようにマルクスは流通労働の価値形成的性格を否定しています。ただ運輸業だけは例外です。

 「物の使用価値はただその消費によってのみ実現されるものであって、その消費のためには物の場所の変換、したがって運輸業の追加生産過程が必要になることもある。だから、運輸業に投ぜられた生産資本は、一部は運輸手段からの価値移転によって、一部は運輸労働による価値付加によって、輸送される生産物に価値をつけ加えるのである。」(全集版資本論?、p.183)

 これらのマルクスの叙述を私なりにまとめると次のようになります。ある労働がその取り扱う商品に対して価値形成的に働くかどうかは、その商品の使用価値の生産にかかわっているかどうかであり、その労働が分業によって独立化していようと事情は変わらない。とすれば非物質的労働は価値形成的労働ではなく、ネグリの言うことには一理あるということになるでしょう。(もっとも非物質的労働といえどもその生産物が物質的なものである場合もありえます。映画の脚本家は非物質的労働者ですが、その映画がDVDとして生産されるという場合がその一例です。)
 しかしマルクスは商品価値ではないが、費用であるといっています。当然のことながら費用とは貨幣による表示のことで、流通労働も費用としては貨幣額として表現されます。ということは、抽象的人間労働へと還元されているのです。それは流通業における剰余労働の存在からも理解できます。とするならば分業によって流通業が自立化した場合、流通労働自体がサービスとしての商品として成立するということはできないでしょうか。それは取り扱う商品の価値を構成するものではないが、商品であり、価値実体としての抽象的人間労働に還元される。それにたいする支払いは社会的富の一部分−資本制においては総剰余価値―からの控除として、費用である、このようにいえないでしょうか。流通労働にかぎらず、貨幣と交換されるすべてのサービス労働が商品として存在しているといえるならば、サービス労働の価値形成的性格および価値法則の適用が認められるのではないでしょうか。
 日本における生産的労働論争において、サービス労働は物質的労働ではなく、価値の物質的担い手としての物質的・対象的使用価値をうまないのだから価値形成的ではないとする見解があるようですが、そのような見方は現代資本主義の構造および階級関係の解明には不十分ではないか、このような感じがしてならないのですが、どうでしょうか。単なる思いつきの域を出ておらず、論理的に煮詰まっていない直感の段階で申し訳ありませんが、ご教示よろしくお願いします。


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