。ヲ office-ebara
社会的総労働の配分論としての商品論(7)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(7)
田中 04/13 17:34
(7)社会的総労働の歴史理論としての物神性論
 物神性論というよりも物神性批判の第4節というのが正確な言い方ですが、その具体的な内容を検討する前に、より簡潔にマルクスの問題意識が表れている文章があるので、まずそちらを引用します。有名な「クーゲルマンあての手紙」です。
 「いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということも、やはり子どもでもわかることです。このような、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象様式を変えうるだけだ、ということは自明です。自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。歴史的に違ういろいろな状態のもとで変化しうるものは、ただ、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです。」(「1868年7月11日クーゲルマンあての手紙」『資本論書簡』2、p.162~3)
 ここで言われている「自然法則」とは、自然科学における数式化されうる法則―たとえば「万有引力の法則」とか「相対性理論」―とは異なったものであることを理解しなければなりません。これらの法則はどの歴史的時代においても妥当するもの、すなわち超歴史的な法則として考えられています。それに対してすべての歴史的時代に共通する社会的労働の欲望に応じた配分式などというものは存在しません。なぜならば第一に、欲望のあり方が社会的・歴史的に、いいかえればその時々の生産様式に規定された階級構造によって、定められています。第二に、社会的労働の種類や方式も生産力の発展程度や生産関係に規定されており、歴史的な特異性を持っています。マルクスがここで「自然法則」だと言うのは、人間も生物の一種であり、そのような意味で自然的存在であること、したがって他の自然との物質代謝過程によって自らの生命を維持しなければならないこと、そのような自然的な必然性として社会的労働の配分がなされなければならない、このような意味だと思います。
 さてこの「自然法則」とは、マルクスが物神性節におけるロビンソン物語の末尾で述べている「価値のすべての本質的規定」(『資本論』1、p.130)にほかなりません。
 「彼の生産的機能はさまざまに異なってはいるけれども、彼は、それらの機能が同じロビンソンの相異なる活動形態にほかならず、したがって、人間的労働の相異なる様式にほかならないことを知っている。彼は、必要そのものに迫られて、彼の時間を彼のさまざまな機能のあいだに正確に配分しなければならない。彼の全活動のなかでどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。経験がそれを彼に教える。」(同上、傍点は田中によるもの)
 ロビンソンの個人的労働時間配分は、まず「必要そのものに迫られて」、すなわち彼の欲求にその出発点があるのです。すなわち欲求に応じてその充足対象を生産する活動時間の配分が行われるのですが、その際「所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小」が配分の決定要因となります。この「困難の大小」とは「さまざまな生産物の一定分量のために彼が平均的に費やす労働時間」(同上)の大小を意味します。ロビンソンの労働配分は、欲求と平均必要労働時間を考慮することによってなされているのです。この平均化は価値という物象的形態=抽象的人間労働への還元を通じて行われるのではなく、具体的有用労働時間に即して行われます。その平均化は経験値として労働の種類それぞれにおいて行われるのです。また、当然のことながら、欲求の範囲と労働時間の範囲とは一致します。というのも欲求の主体と労働の主体とはロビンソン個人において一致しているからです。
 次に「共同的な、すなわち直接的に社会化された労働」の例として、「自家用のために、穀物、家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民家族の素朴な家父長的な勤労」(同p.132)をマルクスは考察しています。
 「これらの生産物を生み出すさまざまな労働、農耕労働、牧畜労働、紡績労働、織布労働、裁縫労働などは、その自然的形態のままで、社会的機能をなしている。なぜならば、それらは、商品生産と同じように、それ独自の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからである。男女の別、年齢の相違、および季節の推移につれて変わる労働の自然的諸条件が、家族のあいだでの労働の配分と個々の家族成員の労働時間とを規制する。しかし、ここでは、継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの社会的規定として現われる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の器官としてのみ作用するからである。」(同上)
 ここでもロビンソンと同様に、労働の自然的形態=具体的有用労働の継続時間が労働配分の基準となっています。分業が存在していても、個々の労働は互いに独立に=ばらばらに行われているわけではありません。欲求の種類に応じて労働の種別化が必要となり、成員の能力に応じて労働の分担=分業が決定されるのですが、その個人的労働力は「共同的労働力の器官」として社会化されているからです。家族という共同体内部では、個々の労働を担う成員の能力が労働に先立って明らかになっているので、欲求に応じた労働時間の配分は具体的労働の継続時間によってなされるのです。労働の社会化とは、このような事柄を含んでいるのです。つまり、個々の労働力の質=なしうる労働の種類と平均的必要時間が前もって明らかであることが、労働の社会化の内容と言えるのではないでしょうか。
また配分のもう一つの基準である欲求に関しても、家族でなされる労働が自家用である限り、生産に先立っておおむね前提されています。突発的な事態―たとえば自然災害あるいは突然の長期にわたる訪問客―がないかぎり、日々の生活に必要とされる物品は大体決まっているからです。
 生産の社会化が可能となるには、欲求の範囲と労働力の質が生産に先立って前提されていることが、家父長制的な農民家族における労働の分析から明らかになったのではないでしょうか。このような前提は、家族という最小単位の社会では比較的容易に成立するでしょう。というのはお互い同じ空間・時間をともにして生活しているからです。(もっとも現代の家族はこのような牧歌的な生活ではなく、一人ひとりが貨幣所有者として互いに独立した存在であることが、ままあるようです。家族の崩壊が近年叫ばれています。榎原さんが提起している「自己神格化」という問題です。)国民経済、あるいはそこまで拡大しなくとも地域社会における生産の社会化とはどのようにして可能なのでしょうか。それを探るために、まずマルクスの協同社会に関するラフスケッチとでもいいうる叙述を次に検討してみたいと思います。


1-

BluesBB ©Sting_Band