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社会的総労働の配分論としての商品論(3)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(3)
田中 03/16 16:45
 マルクスは二つの商品の交換関係=価値方程式をとりあげ、その等式の関係において、
「同じ大きさの一つの共通物が、二つの異なった物のなかに、・・・実存するということである。したがって、両者は、それ自体としては一方でもなければ他方でもないある第三のもの〈交換関係の内部において〉に等しい。したがって、両者はどちらも、それが交換価値である限り〈すなわち交換関係の内部では〉、この第三のものに還元されるものでなければならない。」(新日本新書『資本論』1、p.63)
 ではこの「第三のもの」とは一体何でしょうか。
「諸商品の交換関係を明白に特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である。」(同、p.64)
「労働生産物の有用的性格〈使用価値〉とともに、労働生産物に表わされている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働、すなわち抽象的人間的労働に還元されている。」(同、p.65)
 このような労働の「凝固体」(同上)として価値が規定されています。そして価値は、この段階では―すなわち価値形態が問題とはなっていない段階では、「まぼろしのような対象性」(同上)とされています。だとすれば、抽象的人間労働は「まぼろしのような」活動と考えることができます。「社会的実体」(同上)としての抽象的人間労働は、交換関係内部でのみ成立するものであり、現実の生きた労働ではないということが、この点からも了解されるのではないでしょうか。
 抽象的人間労働の超歴史的理解は、たとえば以下の叙述に根拠を置いているのかもしれません。
 有用労働の「内容やその形態がどうであろうとも、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。」(同、p.122)
 しかし、このような真理は思考による抽象の産物であり、交換関係という前提がなくとも成立しうるものです。それは思考による抽象にすぎないかぎり、実在するものではなく、単なる概念あるいはカテゴリーとしてのみ存在しえます。それに対して、価値実体としての抽象的人間労働は、「まぼろしのような」活動ではありますが、交換関係の内部で実在するものです。「まぼろしのような」実在性とは矛盾した言い方かもしれませんが、単なる思惟抽象ではないということを理解しなければならないと思います。つまり、価値実体論における抽象的人間労働の抽出は、単なる思惟抽象ではなく、交換関係における事態抽象を前提とするものでしょう。事態抽象の内実―回り道という媒介項の把握のない、そういう意味では直観的な把握といえるでしょう。
 また価値実体としての抽象的人間労働は、労働過程論での労働一般とは異なる概念です。
「人間生活の永遠の自然的条件であり、それゆえこの生活のどの形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの」(『資本論』2、p.314)としての「労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である。」(同p.305)
 ここでの「労働そのもの」とは「合目的的活動」であるのだから、その質的規定あるいは有用的性格を捨象したものではないでしょう。したがって「労働過程の単純な諸契機」のひとつとしての労働一般は、抽象的人間労働ではないのです。有用労働からその質的契機が捨象された抽象的人間労働が、有用労働とは区別された実在として存在するのは、商品生産社会においてのみなのです。


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