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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

1:小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、
megumi 02/12 02:11
今日も、多くの人々の観念するマルクス経済学の表象する労働価値説の手本は、以下のカウツキーのものであると思うのです。

「一つの商品が、他の商品と交換される比例は、即ち前者の交換価値と呼ばれる所のものである。この比例は、勿論時と処によって異なる。けれども一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その大きさは常に一定している。今仮に、20ヤールの木綿が一着の外套と交換され、同時にまたそれが40斤の珈琲と交換されるとする。この場合若し、外套と珈琲とを交換する必要が起こるとすれば、それは必ず一着に対する40斤の割合で交換されるであろう。そこで外套の交換価値は、それを珈琲と交換する時と、木綿と交換するときとでは、全く異なった外見を呈することになる。
 然しながら、一商品の交換価値は、その外見上如何に種々異なっていても、これを一定のとき、一定のところに就いて考えるならば、その根底には、同一の内容が横たわっている。・・・略・・・之と同じように、一商品の交換価値は一見如何に種々雑多に見えても、その根底には必ず一定の内容が存在している。我々はこの内容を商品の価値と呼ぶ。」(『資本論解説』高畠訳而立社刊P22~23)

ここでは交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。

しかしマルクスは、4版で次のように書き加えていました。

「「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。」(資本論)

だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。
しかし、カウツキーは、商品の使用価値の量的(自然的・物的)関係の背後に、価値の規定をしたのだから、商品形態(価値形態・自然的形態)の二要因としての二者闘争的性格をもつ価値・使用価値とは把握できなかったのです。使用価値が価値の現象形態になる「価値形態の秘密」の理解が無ければ、この「文化知」による、労働生産物の物象化=商品自身の交換価値・使用価値の判断の理解が出来ない。労働の二者闘争的性格に基ずく使用価値・価値の表裏一体の二重性格への理解が無ければ、等価物上着の役立ちは、使用価値の物的属性としてのみ人々の眼に映るのでした。

だからこそ、小澤勝則氏は、数理経済学をこう批判したのですね。

>商品の価値に使用価値、その素材的要因を結びつけようとする試みは、逆に、商品が素材的に規定された具体的な有用物であることを否定するのである。

商品の二重の姿態を抽象化しているものだから、使用価値の素材的規定性を付け加えても、抽象性は消えず具体化されない・・・と言う批判なのですね。

マルクスは、「労働の価格」あるいは「労働の価値」を「想像的表現」と批判したのですが、「商品搾取定理」も、「資本の価値増殖を生産要素の素材的要因に関連させて示そうとする」「想像的表現」というのですね。賛成します。すばらしい批判です。


2:Re: 小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、
田中 02/12 06:35
「ここでは交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。」

megumiさん、以前の議論をむしかえすようで申し訳ないのですが、価値実体に関して質問させてください。価値実体としての抽象的人間労働は歴史的な規定性であることと、それが生理学的な支出であることとは矛盾しないという解釈は成立しないでしょうか。以下の資本論の叙述をいかに解釈すべきかという問題です。
「彼らの私的諸労働の独特な社会的性格」とは「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」(同p.126)であり、「互いに’’まったく‘‘異なる諸労働の同等性は、ただ現実の不等性の捨象、諸労働が人間的労働力の支出として、抽象的人間的労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成り立ちえない。」(新日本版1、p.125)
具体的有用労働の量的規定としての労働時間は感性的に把握できるものです。そのような意味では具体的労働時間として規定できます。しかしその具体的属性が違えば、同じ量だから同等の生理学的支出であるとはいえない、このことは小学生でも解かる問題ですね。福田jr.が冷や汗をかきながら官僚がつくった答弁書を棒読みする1時間と、私が現場でセメント袋を運んでいる1時間とは、まるで異なる生理学的支出です。(ちなみに社会的有用性の観点から言えば、途方もない違いがあるように思っていますが。)
このまるで異なる生理学的支出を交換関係の内部で同一の尺度に基づく量へと還元するのが、事態抽象としての交換関係、あるいは価値形態ではないでしょうか。社会的平均化としての事態抽象です。それが抽象的であるといわれるのは、社会的平均化が人間の思考では捉えどころのないものとして行われる、このような意味ではないでしょうか。吉原さんが生産技術系のデータから抽象的人間労働が確定されるか否かという論点を提示していましたが、それに対して反論するためには抽象的人間労働としての生理学的支出という一見形容矛盾した規定性を考える必要があるのでは、というのが私の現在の見解です。
「価値を形成する実体」=生きた労働=生理学的支出としての労働、価値実体=商品で表される労働としての抽象的人間労働という榎原さんの解釈に違和感を感じていました。私は前者と後者を区別する解釈をしていないからです。正確にいうと、「価値を形成する実体」は生きた労働ではなく価値実体としての抽象的人間労働として理解しています。訳書をみるかぎりでは「価値を形成する実体」という用語は、商品論においては一箇所にしか登場していないように思います。そこでの文脈の理解としての話です。この用語法がほかにもあるならば、教えてください。区別をみとめていないものですから、読み落としている可能性大です。



3:Re: 価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出?
megumi 02/13 00:55
田中さんは、次の解釈に疑問をもたれました。
>そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。

>megumiさん、以前の議論をむしかえすようで申し訳ないのですが、価値実体に関して質問させてください。価値実体としての抽象的人間労働は歴史的な規定性であることと、それが生理学的な支出であることとは矛盾しないという解釈は成立しないでしょうか。以下の資本論の叙述をいかに解釈すべきかという問題です。

? はーい、いろいろと検討してみます。おかげさまで勉強がはかどります。まず次の部分です。

「互いに’’まったく‘‘異なる諸労働の同等性は、ただ現実の不等性の捨象、諸労働が人間的労働力の支出として、抽象的人間的労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成り立ちえない。」(資本論1、新日本新書p.125)

  ここは、次の節から引用したものですね。

「この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取る。
私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲求を満たさなければならず、そうすることによって、総労働の、自然発生的な社会的分業の体制の諸分肢として実証されなければならない。私的諸労働は、他面では、特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され売るものであり、したがって、これらと等しいものとして通用する限りでのみ、それら自身の生産者たちの多様な欲求を満たす。
互いに“まったく”異なる諸労働の同等性は、ただ、現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、もっている共通な性格への還元においてしか、成りたちえない。」(同上P125)

「現実の不等性の捨象、諸労働が人間労働力の支出」とマルクスは述べていると、論拠を田中さんは示されたわけです。このようなマルクスの明白な主張を誤り?とmegumiは、判断するのかという質問ですね。

更に、言外に次の一文があるのですね。

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する(16)。」(同上P79)

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出」とあるのだから、それこそが価値の実体を示す・・というのです。しかし、
「この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する」との但し書きがあるのですから、人間的労働力の支出だから「同等」と言うものではないのですね。ここの記述は、二節ですから、一節にての前提があったのです。
まず「社会的実体」と言う規定があるのですね。

「これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・・商品価値である。」(同上P65)

そして、抽象的人間労働の「社会的実体」の規定について説明したのが、次のところでした。

「しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。」(同上P66)

このように、「社会的実体は」、「商品世界の諸価値に現される社会の総労働力」
であったのですね。だから「無数の個人的労働力」の総和が、社会の総労働力を形成するのでなく、社会的平均労働力の規定の下での「個人的労働力」とされることで、なされていたのですね。これが、人間的労働力の支出の「属性」である「同等性」でした。この<人間的労働力の支出の「属性」>を巡っての議論が次のものでした。

?>「彼らの私的諸労働の独特な社会的性格」とは「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」(同p.126)であり、
  
次の「四節」の部分からの引用ですね。

「私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映する。――すなわち、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、種類を異にする労働の同等性という社会的性格を、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのである。」(同上P125〜126)

いままでは、人間的労働力の支出の「属性」を、「種類を異にする労働の同等性という社会的性格」と主張したのですが、今度はもう一つ、商品の物神性を生み出す根拠が述べられていたのです。社会的な人間的労働力の同等性の属性が、諸物・つまり、使用価値の自然的的属性としての価値という形態で、反映されるというのです。

そこで、次のように、<かっては歴史があったが、これからは無い>・・・と商品生産、同等性が示される人間的労働力の支出が、始めから社会的総労働力と一体であった共同体の形式の完成形態として(歴史を超越して)表象され、超歴史的なものに観念されるのです。

「商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまること、すなわち、たがいに独立した私的諸労働に特有な社会的性格は、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見の前にも後にも、究極的なものとして現れる・・・」(同上P126〜127)
個別的労働力の反省規定において、社会的総労働力が編成されることに価値関係の規定があったのですね。


4:Re: 抽象的人間労働への還元における二つの過程
田中 02/13 06:18
megumiさん、回答ありがとうございます。おかげさまでもやもやしていた疑問が明確な論点として整理されました。抽象的人間労働の社会的規定性とはなにか、あるいは商品生産社会における労働の社会的性格としての諸労働の抽象的同等性について、二つの側面があるのではないかと思い始めたのです。
アナリティカル・マルキシズム論争において、複雑労働の単純労働への還元と異種労働の同一労働への還元の問題は、区別されながらも結果的には同じ問題として処理されているようです。どちらも抽象的人間労働への還元という点では同じなのですが、第3巻の市場価値あるいは市場価格と生産価格の区別から反省的に考えると、両者を区別しなければならないような気がします。3巻の視点で1巻を解釈する方法が正当かどうかという問題はあります。私は3巻で取り扱われている競争の問題は、1巻においては捨象されているとはいえ、その背後に前提として存在していると解釈しています。つまり1巻では競争のない社会が扱われているという意味で捨象されているのではなく、社会的平均化という競争の結果を過程の分析抜きに前提していると考えています。

「(1)しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。(2)これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。」(新日本新書P66、区分けは田中による)

この引用の前半(1)は種々の種類の労働がその具体的有用性のちがいにかかわらず同一のものであること、つまり異種労働の同一性の指摘です。それにたいして、(2)、とくに「したがって」以下の部分は一つの具体的労働種類内における個別的労働の同一性の指摘です。かなり強引な解釈のような気がしますが、同一労働種類の平均化がまずあり、その平均化されたものとしての抽象的人間労働量によって異種労働との量的比較があると解釈することはできないでしょうか。
ただこの解釈には重大な難点があり、その解決に苦しむところです。同一商品内の平均化が異種労働との比較に先行すると考えると、価値関係内部での還元とは別の還元というものが存在するという結論になりはしないかということです。価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです。とすると置塩モデルのように生産過程における価値の決定が正当である、ということになりかねません。
今現在の私の解決法は、同一の商品種類を構成する諸商品は個別的な価値を貨幣との価値関係=価格のなかで示し、それが競争を通じて社会的平均の水準が決まる、というものです。当然のことながら貨幣商品にも同じプロセスがあります。1巻では同一部門での競争の結果を背後の前提として論理展開しているのでこの問題はあつかわれていないのでは、と思いますがどうでしょうか。(というか3巻の生産価格論までは、といったほうが正確かもしれません。)


5:Re: 田中さんへの提案
megumi 02/13 09:16

田中さん、わたしは、
<小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで>
次のように述べました。

>労働の二者闘争的性格に基ずく使用価値・価値の表裏一体の性格への理解が無ければ、等価物上着の役立ちは、使用価値の物的属性としてのみ人々の眼に映るのでした。

それは、小澤氏がこう述べていたことに呼応するためでした。

> 数理経済学は、ただ商品の価値と使用価値を混同させるため構想された架空の経済学です。数理経済学の世界に一旦入ってしまうとその世界で自己完結してしまい、事実が事実としてみえなくなってしまう、それだけのことです。

わたしは、小澤氏の提案する「商品の価値と使用価値を混同」することへの批判が、左翼の常識とする価値論にもあてはまることを述べようとしました。
労働の二者闘争的性格に基ずいて、商品形態の分析をし、物象の人格化を明示することが第一の課題ですし、「文化知」を生かすことの提案であります。ご存知のように、宇野派も、日共も、価値実体の理解は、超歴史的な人間的労働力の支出です。これでは、「商品搾取定理」の意図を見抜くことが出来なかったのです。

しかし、価値実体の把握は、価値形態論ことに、<鉄が棒砂糖の重さ表現に役立つ>ことに比喩された「価値形態の秘密」を掴むことと一体になります。

利潤率、平均利潤率による生産価格の問題での労働価値説の論証・・・これはこれでたいそう意義あることにはちがいないのですが、置塩理論の迷妄を解き明かす、小澤氏の提案を、私たちの「文化知」から学ぶことが、今必要だと思うのです。
田中さん、資本論(1)十七章での「労働の価格」の、想像的表現とのマルクスの批判を、再考してみませんか?「労働の価値」と「労働力の価値」とをくべつすることは、とても困難なことです。向坂派の理論を学んだ、労働運動の幹部にしても、理論的に整理されず何かの折にすぐ混同して発言してしまい、皆さんに笑われてしまいます。しかし、エンゲルスの『賃労働と資本』序文での<「労働の価値」と「労働力の価値」への混同批判>は、『賃金価格および利潤』のマルクスの、コペルクス的転倒の批判に比べると中途半端なものです。このような研究も楽しいものです。


6:Re: 個別的労働力の反省規定の追記
megumi 02/15 01:59
>個別的労働力の反省規定において、社会的総労働力が編成されることに価値関係の規定があったのですね。

これでは、人間的労働力の支出があれば価値関係をもたらす・・・?
との誤解を生んでしまいます。もう少し、付け加えておきます。

資本論初版の註18段落にこうありました。
A「リンネルの生産においては、一定量の人間労働力が支出されてしまった。リンネルの価値は、このように支出された労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着に対するリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。」

同じく註18a段落にも同じことが述べられていました。
B「リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という自然形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表されている労働は、人間的労働そのものではないのであって、一定の、有用的な労働、裁縫労働である。人間的労働そのもの、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。」

Aは、リンネルの相対的価値形態であり、Bは、等価形態上着である。
Aでの価値に表示される労働と、Bの使用価値に表示される労働の共通性は、「人間労働力の支出」であったわけです。

しかし、これは、「上着に対するリンネルの価値関係」であることから、価値形態の秘密・物象の関係を説くことで、「使用価値が価値の現象形態」とつながっていきます。ところがここを、物と物との関係と理解したらどうなるでしょうか?

田中さんが、つい筆を滑らして
「価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです」
と表現したことです。二商品が、「使用価値の関係」であれば、二つの異なる労働は、「人間労働力の支出」の同一性の下に解消され、物と物の関係でしかなくなり、物象は見出すことができません。

次のことからの誤解があると思うのです。
「(1)しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。」

>この引用の前半(1)は種々の種類の労働がその具体的有用性のちがいにかかわらず同一のものであること、つまり異種労働の同一性の指摘です。

「諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出」を、「つまり異種労働の同一性の指摘です」と評しているのです。

これでは次の二つの労働が混同されていませんか?どうでしょう?

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。」(資本論新日本新書1P79)

価値の実体の労働と、使用価値に表示される労働の異なる二つの労働を混同してしまっては、「価値形態の秘密」を見つけることも出来ない。

註20の節で、こう表していたのです。
「ここでは商品の対立する諸規定が別々に分かれて現れるのでなくて、互いに相手の中に反射しあっている。」
「それゆえ、自分をそのあるがままとして表すためには、商品はその形態を二重化しなければならない。」(原P20)

ここに、労働の二者闘争的性格の意義が明示されたのですね。
ところが、初版付録に付記されたように、価値形態の特質から
「人間労働であることが裁縫労働の本質として認められる」(原P771)
ので、「価値表現を理解しがたいものに」(同)してしまうのです。



7:Re: 個別的労働力の反省規定の追記
田中 02/15 11:05
〈田中さんが、つい筆を滑らして
「価値関係とは異種の使用価値の関係でしかありえないからです」
と表現したことです。二商品が、「使用価値の関係」であれば、二つの異なる労働は、「人間労働力の支出」の同一性の下に解消され、物と物の関係でしかなくなり、物象は見出すことができません。〉

「異種の使用価値の関係」を「異種の商品の関係」と表現すれば、megumiさんは納得してくれるでしょうか。商品の差異とは使用価値の差異か、あるいは価値量の差異です。価値関係とは同量の価値量としての商品の関係ですから、そこにおける差異はもっぱら使用価値の差異であり、私が言いたかったのはそういうことです。価値関係以外での「異種の商品の関係」とは重量関係であったり、「効用」すなわちそれを消費する人間の満足度であり、それらは物と物との関係です。私がいいたかったのは、異なる使用価値のみが価値関係=交換関係を形成しうるということです。

〈「諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出」を、「つまり異種労働の同一性の指摘です」と評しているのです。〉

ここの同一性とは質的同一性のことです。置塩モデルの欠陥はこの質的同一性をただちに量的同一性と理解した点にあると思います。価値実体としての労働は異なる有用労働を生理学的支出としての同一性へと還元し、よって量的比較が可能となるのです。同じ一時間でも異なる労働では生理学的支出はまるで異なります。生理学的支出量としてマルクスが具体的にどのような尺度あるいは内容を考えていたのかは、判然としないのですが、それをカロリー消費として考えてみます。産業ロボットを操作する一時間のカロリー消費量と20キロのセメントの入った袋を運ぶ一時間のカロリー消費がまるで違うのは明白な事実です。また同じ20キロといっても、地面のうえでセメント袋を運ぶ労働と地上50mで足場材を運ぶ労働では、高所での作業がより危険であるゆえより多くの注意力が必要とされるから、当然消費カロリーも異なるでしょう。後者の例は肉体労働間でも異種労働における差異を示しています。このことはブルジョア的意識においても賃金の相違という形で認められています。同様のことは個々人間の相違としても考えられます。筋力あるいは知力の強い人と弱い人とは同じ労働において異なった生理学的支出を行っていると考えられるのではないでしょうか。
このように具体的有用労働における異なる生理学的支出を消費カロリーなどの共通の尺度に還元し、かつそれらの平均値を決定することによって、抽象的人間労働量としての価値量が決定されるのではないでしょうか。そしてその平均化が社会的なものであり、具体的労働としては私的労働でしかないゆえに、それは価値関係という社会的形態内部で行われるほかはないのです。
経済的形態規定と素材的内容規定の区別は、物神崇拝批判としてはものすごく重要な視点だと思います。しかしただ区別を強調するだけでは完全な批判にならないのではないでしょうか。私が両者の関連を強調するのはそのためです。さらに未来社会を構想する上でも重要でしょう。資本制を廃棄する根拠を資本制に求めるならば、形態規定を通して展開されている素材的内容を把握しそこから廃棄の根拠を考察し、新しい形態規定あるいは素材的内容を構想するほかないのではと思っています。


8:Re: 「ペテロにとっては・・そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」
megumi 02/17 11:34
田中さん、すみませんが次のことにおこたえ願います。
『価値形態 物象化 物神性』の、三章「回り道」とは何か?の中で、榎原さんはこう述べています。

資本論4版のいわゆる事実上の抽象を解説していう。

「リンネルが上着に等価物という形態規定をを与えることそれ自体が、リンネルの価値表現なのだが、このことはリンネルが価値物としての上着を自分に等置することでなされ、そしてこの関係のなかで、リンネルは上着を自分をつくる労働と上着をつくる労働に共通な抽象的人間労働に還元して上着を抽象的人間労働の単なる実現形態とするが、そのことが同時にリンネルの上着による価値表現となっているのである。」(同書P110)

あるいは、こうにも述べている。

「このように見てくると、いわゆる廻り道は、・・・価値表現のメカニズムとしては述べられてはいないことが明らかとなる。それは文字通り、「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズムにほかならない。(同書P113)

久留間さんは、価値存在の表現を、「価値表現のメカニズム」と理解することで、具体的労働の「事実上の抽象」を、理論的抽象と見誤ったことで、宇野の、リンネル価値の上着への等値の錯誤批判としての「回り道」の、正しい問題意識に関わらず、ここでのマルクスの提案を受け止めきれなかったのだと、私は思うのです。

註17aでの、マルクスのフランクリンの諸労働の還元を批判しているところなぞ、田中さんに是非ともご検討願いたいところです。

「(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。」(四版原P65)

「最後」の「価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」・・・
は、抽象的人間労働であることは論を待たないですよね。その前の「別の労働」とは何でしょう。「人間労働一般」あるいは、「人間的労働力一般の支出」のことであり、そして、はじめのある労働とは、具体的姿態の労働でしたね。
つまり、ここには<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>など無かったのです。

反省規定は、見出せますよね。左辺の具体的有用労働に対しての、右辺の「人間的労働力一般の支出」としての等値は、価値関係を形成するものでした。その結果としての最後の労働の、抽象的人間労働――という判断なのです。「抽象と判断」という価値関係のもたらす概念的作用が描かれていたのです。

榎原さんの<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>という理解は、価値関係のもたらす概念的作用――への理解を鈍らせるものではないか?・・・とふと思った次第です。

「註18」はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。」(同上原P67)



9:Re: 「ペテロにとっては・・そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」
田中 02/17 15:45
〈「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」〉

〈「最後」の「価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」・・・は、抽象的人間労働であることは論を待たないですよね。その前の「別の労働」とは何でしょう。「人間労働一般」あるいは、「人間的労働力一般の支出」のことであり、そして、はじめのある労働とは、具体的姿態の労働でしたね。
つまり、ここには<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>など無かったのです。〉

フランクリンの引用文は異なった有用労働の交換についてのものであり、「別の労働」とは別の種類の有用労働として読むのが私の解釈です。人間労働一般と抽象的人間労働とは同義として私は理解しています。


10:Re価値関係とは概念的存在の表現
megumi 02/20 01:15
田中さん
>価値関係とは同量の価値量としての商品の関係ですから、そこにおける差異はもっぱら使用価値の差異であり、私が言いたかったのはそういうことです。

?価値関係とは、同質の価値関係でなく、価値存在の表現ですし、それ以外の表しようはありません。
「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。
 価値存在の表現とは、諸商品の交換関係にて、商品=物象による<抽象と判断>の明示を、?使用価値・価値の二要因であり、具体的有用労働・抽象的人間労働の二重性として示すこと、そして、?使用価値・価値形態、使用価値・交換価値として現象することを示すことです。
まとめると、「価値概念」の存在を立証することである・・・と、田中さんの回答を見て自分でも、新ためて考え直しています。

?次の、資本論四版「相対的価値形態の内実」の展開は、初版と初版付録での叙述を前提にしたハショッタ展開と思えるのです。

「しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。」(『資本論』原P64)

「上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する」というのは、上着のリンネルとの同一性は、上着自身の中にある「価値物」で示されるからでした。
これは両者の具体性が抽象されることで、「価値物」上着と共通性が規定されたのです。

?しかし、「他方では」他者である「等価物としての上着」と、価値としてのみ関係することで、「リンネルそれ自身の価値存在」が、自ずと具体的姿態の下に「現れてくる」――と述べています。
 次の例のとおりです。
「今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し・・」(同上P65)
 そのことが、労働の例ではこう表されました。
「織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際(事実上)に還元する。」(同上P65)
 そして、重ねて述べた。
「種類の異なる諸商品の等価表現だけが――種類の異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる諸労働を、人間労働一般に、実際(事実上――長谷部訳)にそれらに共通なものに、還元する」(同上)
 ここにあるのは、「価値物」としての諸商品の共通性の抽出とは区別された
「事実上の還元」・事実上の抽象あるいは、「現実的抽象」であります。マルクスは、二つの抽象を対比させているのです。

 次のように、理論的抽象を批判していたのです。
「価値抽象に還元」とは、商品形態が二要因の対立的規定において成立することの否定であるのですから、諸商品の具体的労働に共通者を求める理論的抽象批判でもあったのです。
「われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。個々では、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。」(四版原P65)

 二つの抽象の存在の提示は、了解できますよね。
後者の事実上の抽象とは、リンネルの等価物上着に与えられる形態規定なんですね。上着は、リンネルの等価形態であることから、使用価値であるのに直接的交換可能性の姿態を受け取りました。同じく、等価物上着の表す裁縫労働は、人間的労働力一般の実現形態として、リンネルの価値実体の共通者を現しているのです。
 
 初版でも、「人間的労働力一般の実現形態」が、具体的有用労働である裁縫労働に関して述べられていました。
「だから裁縫労働は目的が決められた生産活動、有用労働であるからではなくて、目的が決められた労働でありながら人間労働一般の顕現形態、対象化様式であるかぎりでのみ、リネンにとって重要になる。」(『初版』原P19今村訳)
 これは『初版』の註18aにある等価物上着の価値鏡の例示なのですが、このような反省規定であり、形態規定と同じことが四版の「事実上の抽象」として述べられていたのです。

?ところで、なぜ理論的「抽象」批判という形式で、価値実体の論証をおこなっているのか?というマルクスの意図ですね。

 次の「まわり道」の提案の意義ですね。
「しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。」(四版P65)

 人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働に、自らを反照(反省)させる(「まわり道を通った」)ことで、「織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られる」と述べたのです。ここに、商品が価値関係を結ぶことでの、事実上の<抽象と判断>が明示されたのです。(「ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」(資本論四版註18)とあるように、反照させる相手が、人間的労働力一般であるからこそ、織物労働は、「両方の労働のうちの現実に等しいもの」を見出すことが出来、「抽象的人間労働」と、我が身を判断することができるのではないでしょうか?)

このように、「まわり道」を通ることでのリンネル織り労働の抽象化を主張し、具体的有用労働の抽象化による価値実体の論証を、<商品は概念的存在>と批判していたのです。
<人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働>とは、抽象的人間労働の現象形態としての裁縫労働の等価形態での表し方ですから、「まわり道」を、反照とすることで、リンネル織り労働の価値姿をそこに見て(反省)、リンネルの価値実体が抽象的人間労働と自ら判断しているのですね。価値の現象形態としての使用価値上着に、価値リンネルを反照させて、使用価値リンネル――との規定が語られる・判断されるのですね。(親子関係と同じく反照させているのだから、メカニズムでもなく、使用価値による価値の表現とも異なっていたのです。)

 一対の商品の二要因が、諸商品の関係では、等価物に反照されることで諸商品に対極的に表現されるのですし、等価物上着が、価値形態をとるならば、反対極でリンネルは使用価値と判断されるのです。価値関係はこのように概念的存在であり、等価物が三つの独自性をしめすことで、そこに反照するそれぞれの対の他方を、反対極で使用価値・具体的労働・私的労働と判断していたのです。商品を、使用価値・価値の二要因と規定し、使用価値・価値形態(交換価値)と二重の姿態で判断するので、私たちは、物象の意志支配の下で、自らの判断と思い込みながら商品交換ができるわけですね。(このような等価物上着の役立ちでの抽象の説明が、「価値抽象」批判であったのです。そして、鉄を重さの現象形態とすることでの砂糖体の重さ表現での役立ちの文化知)

 そこで、使用価値が価値の現象形態となることで等価物上着の役立ち、あるいは、まわり道の対象――を果すのですから、具体的有用労働と抽象的人間労働などの商品の二要因を混同していたら、商品の価値関係による<抽象と判断>は形成されず、それを物と物の関係と理解し、人間の意志諸関係が商品関係を形成することになり、社会革命は、政治革命に全てを託すことになります。


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