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「価値姿態」に関する解釈

1:「価値姿態」に関する解釈
田中 10/25 11:26
 megumiさんとの論争の焦点は、簡単な価値形態における等価形態の性格、及び「直接的交換可能性」をどう理解するか、という点でした。その点に関して、マルクスの記述を引用しながら自説を展開します。引用は初版本文国民文庫版を一部改訳したもので(「を」を「に」へだけですが)、ページは原典のものを表示しています。

 リンネルは「それ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分に他の一つの商品、上着を、自分に等しいものとして、関係させることによって、示すのである。もしリンネルがそれ自身価値でないならば、リンネルは自分に価値としての上着を、自分に等しいものとして、関係させることはできないであろう。質的にリンネルは自分に上着を等置するのであるが、そうするのは、リンネルが自分に上着を同種の人間労働の、すなわちそれ自身の価値実体の、対象化として関係させることによってである。」(S.16)

「リンネルは、他の商品を自分に等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分に価値としての自分自身を関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(S.16)

価値関係の両項は商品ですから、関係以前に価値です。商品は単独の存在としては、使用価値と価値との統一であるからです。そして矛盾した規定が統一されているがゆえに、それは同時に「内的対立」なのです。したがって、リンネルも価値として存在しています。また「それ[リンネル]自身の価値実体の、対象化」といわれているのですから、上着はここではあくまでもリンネルの価値姿態として規定されているにすぎません。
 また「直接的交換可能性」に関しては、次のように述べられています。

「この関係のなかでは、上着という商品種類がリンネルに質的に等置され、したがって一定の量において同等とみなされ、リンネルの代わりとなり、リンネルと交換可能なのである。」(S.16〜7)
「じっさい、リンネルの価値形態はなにを意味するのであろうか?上着がリンネルと交換可能である、ということである。・・・等価物という規定に含まれているのは、ただ、ある商品が価値一般であるということだけではなくて、その商品の物的な姿において、その使用形態において、他の商品にたいして価値として認められており、したがってまた直接に他の商品にとっての交換価値として存在しているということである。」(S.17)
「リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用対象としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル−物体に対立するリンネル−価値の現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態になるのである。」(S,17〜8)

 「直接的交換可能性」は、ここではあくまでもリンネルとのみであることが表現されているのではないでしょうか。ここで「価値一般」といわれているのは、価値そのものという意味でしょう。たとえリンネルの価値として限定されていようが、価値はリンネルの具体的姿態=使用価値からの抽象としてしか存在しないのです。そのような意味において、価値とは一般的なものでしかないのです。また、この引用の後半部分は、「簡単な価値形態」を一般的に規定している、すなわち価値関係の両項の具体的規定性=使用価値を特定しない形での記述として理解できます。それは等価形態にある商品があくまでも相対的価値形態にある一商品にとっての存在であることを否定し、一般的な=自分以外の全商品の価値姿態であることを意味するものではないのです。



2:Re: 「価値姿態」に関する解釈
megumi 10/25 22:38
田中さんは、勿論『資本論の復権』はお読みですよね。本箱の下で積読になってお忘れになっていませんか?同書のP51に、貴方が論じたのと同じかしょの解読が述べられていました。

あるいは、崎山政毅さんが著した『資本』(岩波書店)でも、まったくおなじです。

どちらか片方でもよかですから、榎原さんに、また、このホーページの読者に、その感想を教えてください。この出発点の解読こそがとても大切と思うからです。榎原さんはこ踊りして、喜んでくださると思いますよ。

3:Re: 「価値姿態」に関する解釈
 10/25 23:08
榎原さんの本は、『価値形態 物象化 物神性』でした。失礼 書き間違えました。そして、崎山さんの本のP8〜9にその記述があります。

4:Re: 商品の二要因
megumi 10/26 06:59
「使用価値としての亜麻布は自立した物・・亜麻布は他の商品との関係のなかでしか価値ではない。」ことについて

田中さん二つの事にきずいたので書きます。

その一
「リンネルは、他の商品を自分に等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分に価値としての自分自身を関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。」(S.16)

崎山さんの引用する『初版』は、久留間さんの訳でこうです。
「リンネルは、他の商品を自分に価値として等値することによって、価値としての自分自身に連関する。」

牧野さんの訳はこうです
「〔第一に〕亜麻布は、他の商品と価値として等置されることによって、価値としての自分に関係する。」(『対訳初版資本論1章』P33)

久留間さんの訳は、<価値としての他の商品>ですが、国民文庫のものは、価値としての上着にリンネルが等置されることが曖昧です。牧野さんのは、亜麻布が「価値としての等置」とされているので、上着が、価値であることは見て取れます。

その二
二つの要因の区別ですが、使用価値・価値の商品の2要因は、単独の商品にては「区別」がなく、他の商品との連関においてその区別が生ずる・・・と述べているのではありませんか?


5:Re: 「価値姿態」に関する解釈
田中 10/26 18:48
「価値形態の秘密とその謎を区別する必要がある」(p.50)との認識にもとづき、価値形態の秘密について、「中心的には相対的価値表現の問題であり、等価形態そのものが生じるのは何故か、ということである。」(同)
このように榎原さんは価値形態の問題を、まず相対的価値表現の問題として把握しています。そのうえで、リンネル=上着という「この等式が表現する、リンネルの価値が上着に等しい、ということが、何故、リンネルが自分に等しいものとしての他の一つの商品上着に連関することを意味するのか。また同じことだが、リンネルが自分に上着を等置することが、何故、リンネルが同種の人間労働としての上着に連関することを意味するのか。」(p.51)このように価値形態論の問題を把握しています。
 榎原さんが主張しているのは、リンネル=上着を単に「二つの使用価値の割合」(p.52)という等式としてつまり等置としてとらえるのではなく、「これをリンネルからの上着への連関と規定することによって、この等置におけるある質の同等性を浮かびあがらせようとしたのであった。」(p.53)
 ここでいわれているのは、価値関係とは「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」ではなく、その関係によってはじめて同一性としての抽象的人間労働が規定されることを解明する、ということでしょう。つまり抽象的人間労働とは、関係によってはじめて成立する社会的実体であることが、価値形態論において明らかにされた、ということです。古典派の限界は、同等性としての労働とはどのようなものか、ということを問題とはしていなかったのです。マルクスがいう労働の二重性の把握がなされていないというのは、社会的実体として超感性的に存在するものとして、価値実体としての労働を把握できていないということでしょう。古典派は関係により成立する形態規定として、価値関係を把握できなかったのです。
 「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」において前提とされている同等性とは、思考抽象により把握されたものであり、マルクスのいう「蒸留法」のいいでしょう。それにたいして価値形態論では、リンネルが主体となった上着との関係という総合による抽象=事態抽象が明らかにされたのでした。


6:Re: 価値連関
megumi 10/27 06:45
田中さん『価値形態 物象化 物神性』は座右の書でありましたか。敬服する次第です。

>榎原さんが主張しているのは、リンネル=上着を単に「二つの使用価値の割合」(p.52)という等式としてつまり等置としてとらえるのではなく、「これをリンネルからの上着への連関と規定することによって、この等置におけるある質の同等性を浮かびあがらせようとしたのであった。」(p.53)
 ここでいわれているのは、価値関係とは「同等性を暗黙の前提とした二商品の等置の関係」ではなく、その関係によってはじめて同一性としての抽象的人間労働が規定されることを解明する、ということでしょう。つまり抽象的人間労働とは、関係によってはじめて成立する社会的実体であることが、価値形態論において明らかにされた、ということです。古典派の限界は、同等性としての労働とはどのようなものか、ということを問題とはしていなかったのです。

『初版』の記述・・・・
「ただ同じ単位の諸表現としてのみ、それらは同じ分母の、したがってまた通約可能な大きさなのでである。だから、・・・リンネルが自分と同じ物としての上着に関連するのであり、言い換えれば、上着が同じ実体の、同じ本質のものとしてのリンネルに関係させられるのである。だから上着はリンネルに質的に等置されるのである。」

榎原さんは、そこで「ある質の同等性」と書いた後にこう述べています。
「したがって、リンネルが自分に等しいものとしての他の一つの商品上着に関連するさいに、リンネルが同種の人間労働の対象化としての上着に関連しているという事態は、感性で把えられるものではない。」(『価値形態・・』P53)

リンネルは、価値としての上着に関係することで、自分自身の価値と関連するのですから、超感性的な抽象的人間労働の対象化としての上着に関係することであり、「上着が、同じ実体の、同じ本質のものとしてのリンネルに関係させられる」のですね。ここには「反省規定」の連関があるのですから、
<超感性的な抽象的人間労働の対象化としての上着>は、リンネルと<同じ実体の、同じ本質のもの>にされている・・ことを指して、「この等置におけるある質の同等性を浮かびあがらせようとしたのであった」・・・とのべたのです。だからこそ、価値関係でなされる事実上の抽象は、上着に示される価値実体を、人間労働力一般と表したのではないか?・・・私は、そう考えるのです。


7:Re: 価値連関
田中 10/27 09:17
価値連関についてですが、私は以前の「疑問」投稿文において、次のような問題提起を行いました。
  <20エレのリンネル=1着の上着>という価値関係において、リンネルは「それ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分に等しいものとしての他の一つの商品、上着に、自分に等しいものとして、関係させることによって、示すのである。」(『資本論』初版・国民文庫版、p.44)言い換えれば、リンネルは上着を「価値として等置することによって・・・自分を使用価値としての自分自身から区別するのである。」(同p.45)つまり、「リンネルの価値は、ただ、他の商品、たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ現れるので」(同上)ある。このようにマルクスは価値形態の分析を始めていますが、以上の叙述を素直に読むと、「価値として」リンネルは「価値としての」上着に関係すると読めますが、そうなると価値存在としてのリンネル・上着が価値形態に先行していることになるのではないでしょうか。そしてここから価値形態論を価値表現論としてのみ捉える解釈が現れるのではないか。
 これにたいして榎原さんはつぎのようコメントを寄せてくれました。

「商品の生産過程と流通過程は資本価値のひとつの流れですから、それをどこかで恣意的に切断して、価値存在と価値形態という風に分けることは余り意味はないでしょう。価値とは商品章の段階では交換価値ですが、貨幣の資本への転化以降は資本価値となります。」

価値とは商品生産者の社会的関係の物象的形態にほかなりません。それが意味するところは、商品生産者同士の直接的社会関係は存在せず、物象的関係=商品の交換関係=価値関係において初めて成立するということでしょう。すなわち商品単独では価値は成立しないのではないでしょうか。
ここで新たな問題が発生します。では単独の商品における二重性をどのように把握すべきなのか、ということです。価値形態論以前に価値実体論が「蒸留法」により価値実体論が展開されていることをどのようにとらえるのか、という問題です。
マルクスは価値をまず交換価値としての分析から始め、交換関係から「蒸留法」により価値実体を導出しています。つまり価値の分析は常に関係を前提しているのです。上述の疑問、「商品単独では」という問題設定が誤っているのです。商品自体がひとつの関係なのですから。この点については『価値形態・物象化・物神性』でもしつこいくらいに指摘されています。たとえば「商品形態という物象相互の社会的関係がとる形態の内容たる人々の社会的生産関係」(P.49)つまり商品という場合には、それを単独で考察する場合でも、価値関係が前提となっているということでしょう。そのような事態は日常意識においてもつねに意識されています。生産現場でのコスト管理とは、生産物と貨幣との関係にほかなりません。商品生産においては、つねに貨幣との関係が念頭に置かれているのです。(交換関係と交換過程との区別は、前者が観念的関係であり、後者が現実の社会的関係であることを認識したうえでの議論ですが)
このような意味において、私は価値物上着はリンネルとの関係における規定であるととらえています。


8:Re: 資本論冒頭の交換価値の分析
megumi 10/27 20:32
>マルクスは価値をまず交換価値としての分析から始め、交換関係から「蒸留法」により価値実体を導出しています。つまり価値の分析は常に関係を前提しているのです。

田中さん、次のサイトで資本論冒頭での交換価値の分析が述べられています。

>量的関係としての交換価値と「商品に内的な・・交換価値」の区別が無いことは、次のカウツキ―先生の教示依頼の歴史的伝統なのですね。
http://red.ap.teacup.com/shihonron/8.html?b=10#comment)

ぜひともここで意見を述べてください。
私たちはこのような歴史的な伝統が及ぼす交換価値の理解から自由ではないのです。


9:Re: 資本論冒頭の交換価値の分析
megumi 10/28 21:25
4版の次のところから紐解いていきましょう。

「4 単純な価値形態の全体
・・・・・・・・
この章のはじめでは、普通の流儀にしたがって、商品は使用価値および交換価値であると言ったが、これは、厳密に言えば、誤りであった。商品は、使用価値または使用対象、および「価値」である。商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、あるがままのこのような二重物として自己を表すが、商品は、孤立的に考察されたのではこの形態を決してとらず、つねにただ、第二の、種類を異にする商品との価値関係または交換関係の中でのみ、この形態をとるのである。もっとも、このことを心えておきさえすれば、先の言い方も有害ではなく、簡約に役立つ。」(資本論四版)

「商品は、その価値がその現物形態とは異なる一つの独特な現象形態、交換価値という現象形態をとるやいなや、・・・」と述べられた「交換価値という現象形態」とは、商品分析冒頭での、

「第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない」

のことではなかろうか?

<価値の現象形態としての交換価値>とは、直接交換可能な使用価値であり、経済的形態規定を受けた使用価値のことですね。

このあたりの整理を『初版』でこうのべていました。

「かの単純な価値表現の中に価値の形成の秘密・・・が見だされる」の注20の文節の後に続いています。

「商品の価値の相対的表現には価値の二つの形式が含まれていることがわかった。〔即ち〕亜麻布がその価値と一定の価値の大きさとを上着で表現している・・〔その時〕亜麻布は自分の価値を他の商品への価値関係のなかで示しているのであり、したがって交換価値〔相対的価値〕として示しているのである。他方、相手方の商品である上着は亜麻布の価値を相対的に表現しているのだが、それは、まさにそのことによって、亜麻布と直ちに交換されうる使用価値という形式をとることになる。」(牧野訳『初版資本論第一章・・』P43)
相対的価値とは区別された経済的形態された交換価値が示されたのですね。

ここにリカード批判が明示されたのです。
この展開は、前に触れていた次の一節の説明としてあったのです。

「・・・〔以上をまとめると〕使用価値としての亜麻布は自立したものである。しかし、亜麻布は、他の商品との関係〔たとえば上着〕でしか価値ではない。〔つまり価値としての亜麻布は、自立していない。しかるにその関係とは、上着という商品種をば、亜麻布と〔価値という〕質では同じとする関係であり、したがって、両者は一定の量ずつ比べれば同じであり、取替えできるし、交換できるということを表した関係である。従って、価値は交換価値として現れるときにしか、使用価値とは異なった固有の形をもつことができないのである。(つまり、使用価値はそれ自身の中で使用価値として現れているが、価値は交換価値とされた他者の中で価値として現れるしかないのである。)。(同上P35)

「従って、価値は交換価値として現れるときにしか、使用価値とは異なった固有の形をもつことができないのである」・・・の<交換価値>は、<交換価値〔相対的価値〕>とは区別されたものであり、等価形態にある使用価値上着の価値の現象形態としての、上着の自然的形態が形態規定された交換価値のことなのです。
こうして、商品の使用価値・価値の内的要因が、価値関係を媒介に、相対的価値形態にあるリンネルを使用価値、等価形態にある上着を交換価値と、<判断>され、価値関係が物象の社会関係であることが立証されたのです。

蒸留法での商品分析と、価値形態での商品分析が、リカードの「相対的価値」への批判として統一的に展開されてこなかった弊害が、物象化論が生かされないことになっていたのですね。私は、この作業の中で、このように考えることが出来ました。


10:Re: 資本論冒頭の交換価値の分析
田中 11/01 20:39
megumiさん,相対的価値形態と等価形態とを交換価値の二つの形態として把握したうえで、両者を区別するということだと理解しました。私もその点に賛成です。その区別を外的なものではなく、両者の内的関係―反省規定として把握しうるかどうか、この点がリカードとマルクスの相違なのだと理解しました。
今回の議論で確認できたのは、価値関係の主体は相対的価値形態にある商品ですが、その主体が客体−主体の対象たる等価形態商品に反省規定される、ということの意味です。主体が客体に規定されているのですね。ここに物神崇拝の根拠があるということを再認識しました。つまり主体の行為にもかかわらず、主体は規定されるという受動的位置に置かれています。その意味では客体が主体に反転しているといえるのではないでしょうか。そのような商品の関係は、商品所有者の意識には、貨幣が自分たちの共同行為の産物であるにもかかわらず、価格をつけるというかたちで、貨幣が自分の外にある前提として意識される、というかたちで現れているのでしょう。
物神崇拝は関係認識の錯誤などではなく現実的な根拠がある、この点をどのように理解するかが、決定的だということでしょう。

 資本論三巻についてですが、大谷さんの文献を調べました。かなりの量でそれだけで圧倒されてしまいました。数学が苦手で嫌いな私は、だいたい利潤率の計算式がでてくるだけで挫折してしまいます。「三位一体」の章を結論としてよめばいいやという姿勢で、スルーしていましたが、やはりそれでは現代資本主義を理解する糸口にすらたどり着けないようなので、これからぼちぼち始めたいと思います。


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