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社会的総労働の配分論としての商品論(8)補足

1:社会的総労働の配分論としての商品論(8)補足
田中 04/27 12:16
前回の投稿で「労働の出来高」について、それを単位労働時間あたりの労働生産物の産出量として解釈し、その平均化について述べました。というのも、社会的総労働の計画的配分を考える際には、商品生産社会においては価値法則の貫徹という形で盲目的になされる労働の社会的平均化は、協同社会においては直接的生産過程においてなされなければならない、と考えたからでした。しかしマルクスのいう労働の出来高とは、やはり単なる労働給付のことであり、それが等しければその成果=労働生産物の産出量がことなっても同等の請求権が与えられると考えるべきでした。平等の権利の不平等性の承認とはそのような意味でしょう。そうでなければ労働時間を尺度にすることにならず、労働の質的相違を給付の基準に置くことになってしまいます。資本制からの移行期においてはただちに生産条件の平均化がなされるわけではありません。そのような場合でも生産物の産出量に関わらず、労働給付にのみもとづく分配がなされなければならないということです。しかし、直接的生産過程において、社会的必要労働時間という意味での労働の社会化が完全になされるのは、やはり生産過程の平均化によって完全なものとなるでしょう。そして、総労働の配分と労働時間による分配が均衡を達成することが可能となるでしょう。
「そもそも機械制大工業によって労働が社会化されれば、個々人の労働力は一個の集団的労働力として機能し、個々人の労働力の差異は労働過程そのものにおいて平均化されてしまうわけだから、支出された労働を評価する場合に、個々人の労働の差異といったことは問題になりえない。」(榎原均『ソビエト経済学批判』、p.294)
ここでの労働の社会化とは、協業という意味、つまり生産単位における社会化ということです。怠惰とか勤勉とかはもはや問題にはならない、という意味でしょう。このような事態を前提としたうえで、生産単位間の相違あるいは社会化を問題にしたのが、前回の投稿なのです。個々人の労働が社会的労働の一分肢として直接評価されるとはどういう意味か、を考えたわけです。
以上訂正と補足をさせていただきます。


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