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社会的総労働の配分論としての商品論(8)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(8)
田中 04/20 15:31
「最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。ここではロビンソンの労働のすべての規定が再現されるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼自身の生産物であり、それゆえまた、直接的に彼にとっての使用対象であった。この連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の成員によって消費される。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものとしよう。そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求にたいする労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働にたいする生産者たちの個人的関与の尺度として役立ち、それゆえまた、共同的生産物のうち個人的に消費されうる部分にたいする生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働および労働生産物にたいしてもつ社会的諸関連は、ここでは、生産においても分配においても、〈物象的形態をとることがなく〉簡単明瞭である。」(『資本論』1、p.133〜4)
マルクスは労働時間を尺度にすることを「簡単明瞭である。」と述べていますが、よく考えてみるとそれほど事態は単純ではないでしょう。まず、個人的な消費手段の分配から考えてみましょう。その尺度は、価値として現象するほかのない抽象的人間労働ではなく、個人的な具体的有用労働時間として考えられます。しかし、複雑労働と単純労働の相違や勤勉な労働者と怠惰な労働者の相違をどうするのか、という問題があるのではないか。このような疑問が提起されるかもしれません。この二点について考えてみます。
まず複雑労働と単純労働の相違に関してですが、以前の投稿で私は「現実の生きた私的諸労働は、その質的規定性に応じたさまざまな熟練度と強度をもつ労働力の「生産的支出」です。そのような生きた労働が交換関係において社会的な度量単位としての抽象的人間労働=「単純労働力の支出」へと還元されるのです。」(「社会的総労働の配分論としての商品論」(4))と述べました。そして生理学的支出として抽象的人間労働を捉える観点から、たとえば消費カロリー量を測定単位としてあげて、その量的多寡が抽象的人間労働量となるのではないか、と提起しました。(「アナリティカル・マルキシズム論争によせて」4.生理学的支出としての抽象的人間労働への交換関係における還元とは社会的平均化であること) 
しかしこのような理解は一面的なものでした。というのは、度量単位としての単純労働は社会的な規定であることが、充分把握されていないからです。社会的性格を単に交換関係における規定としてのみ理解していたのです。以下のマルクスの指摘を見逃していたのです。
「確かに、単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。」(『資本論』1、p.75)
「高度な労働と単純な労働、「“熟練労働”」と「“不熟練労働”」とのあいだの区別は、一部分は単なる幻想にもとづくか、または少なくとも、実在することをとうにやめていていまや伝統的慣行において残存しているにすぎない区別にもとづいており、また一部分は、労働者階級のある階層がよりいっそう孤立無援な状態にあり、そのため、これらの階層が自分たちの労働力の価値をたたかいとる力が他の階層よりも弱めている、ということにもとづいている。この区別にあっては、偶然的な事情が大きな役割を演じるのであって、同じ労働種類が地位を替える場合があるほどである。たとえば、資本主義的生産の発展したすべての国におけるように、労働者階級の体質が弱められ、かなり疲れ果てているところでは、一般に、多くの筋力を必要とする粗野な労働が、はるかに精妙な労働と地位を替えて高度な労働に逆転し、精妙な労働が単純労働の等級に低落するのである。」(『資本論』2、p.338)
このような労働の等級は、労働力の価値の等級として、言い換えれば賃金格差として現象します。
「社会的平均労働に比べてより高度な、より複雑な労働として意義をもつ労働は、単純な労働力と比べて、より高い養成費がかかり、その生産により多くの労働時間を要し、それゆえより高い価値をもつ労働力の発揮である。もし労働力の価値がより高いならば、それゆえにこそこの労働力はより高度な労働においてみずからを発揮し、それゆえに同じ時間内で比較的高い価値に対象化される。」(同p.337〜8)
私が従事している建設業でいうと、クレーンなどの機械オペレーターのほうが一般作業員よりも高い賃金を得ています。自分の経験からいえばオペレーターのほうが肉体的には楽です。精神的な集中力や注意力は当然オペのほうがより必要ですが、疲労度でいえばやはり土木作業員のほうがきついと思われます。ということは、消費カロリーは作業員の方が多いのですが、労働力の価値は低く、したがってオペよりも単純な労働とみなされているわけです。
以上の観点を踏まえてなお、生理学的支出としての抽象的人間労働論を立論するならば、次のようになります。消費カロリーの多寡が価値量に反映するのは同一労働における強度に関してでしょう。異種労働間では生理学的支出の様態が異なり―脳髄か筋肉かなどの相違―、その質的相違は文化的、社会的な階層性を構成しています。つまり同じ消費カロリーでも脳髄によるものは筋肉の何倍として評価されるということです。そしてこの文化的・社会的階層性は階級の力関係を反映するということです。
非階級社会としての協同社会を構想するマルクスは、このような労働の階層性は廃棄すべきだと考えています。
「生産者の権利は生産者の労働給付に比例する。平等は、等しい尺度で、すなわち労働で測られる点にある。だがある者は、肉体的または精神的に他の者にまさっているので、同じ時間内により多くの労働を給付し、あるいはより長い時間労働することができる。そして労働が尺度の役をするには、長さか強度かによって規定されなければならない。そうでなければ、それは尺度ではなくなる。この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。だれでも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利はなんの階級区別をも認めない。しかしそれは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに承認している。」(国民文庫『ゴーダ綱領批判 エルフルト綱領批判』、p.26〜7)
マルクスは「生産者の権利」としての「社会的消費元本にたいする持分」(同p.27)は労働時間とその強度、すなわち「労働の出来高」(同上)に比例すると規定しているのです。労働の有用的性格の相違としての質的相違は認めていません。
勤勉な労働者と怠惰な労働者との相違はどうするのか、という問題も先の引用文で解決策が示されています。労働の強度を考慮することによって、この問題は解決されているのです。
しかし、労働の出来高は労働時間と強度だけで決まるわけではありません。それは生産条件によっても規定されているのです。高度な生産手段と良質な労働対象を用いれば、同一の労働時間・強度でも、劣悪な生産条件を使用する場合に比べて、より多くの生産物が生産されえます。その場合、労働給付は等しくても消費元本に対する請求権が異なってしまうでしょう。
この格差はどのようにして解決しうるのでしょうか。それは生産手段の共同所有の内実を考えれば可能でしょう。資本制においては生産に関する技術的情報は社外秘として公開されることはありません。しかし協同社会における共同所有は、さまざまな情報の共有を含んだものと考えるべきです。私的所有の廃棄は、知的所有権の廃棄をも含んだものでなければならないからです。その結果、生産条件が現実の生産過程において平均化されることが可能になるのです。資本制においては競争を通じて行われるほかのない平均化は、協同社会においては生産の前提条件となるのです。そして、そのような条件の成立が労働時間を基準とする分配を可能とするのです。


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