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社会的総労働の配分論としての商品論―その二

1:社会的総労働の配分論としての商品論―その二
田中 03/05 13:38
 (3)価値実体としての抽象的人間労働
マルクスの叙述順序とは異なり、いきなり物神性論で展開されているものから検討を始めたことに、違和感を感じられるかもしれません。なぜそのような始まり方をしたのかといえば、価値実体論のみならず、価値形態論の解釈でも、労働の社会的性格が価値という労働の社会的形態をとる以前に成立するという見解―意識的なものから無意識的なものまで―が多数を占めているからです。つまり価値関係という社会的形態の背後に生産者の労働の直接的関係が存在するかのような解釈が後を絶たないからです。この点については『価値形態・物象化・物神性』で何回も指摘されていることです。抽象的人間労働の超歴史的概念としての把握が、その最たる例でしょう。マルクスは次のようにはっきり述べているにも関わらず。

「したがって、人間が彼らの労働生産物を価値として互いに関連させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間的労働の単なる物的外皮とし通用するからではない。逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値として互いに等置し合うことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間的労働として互いに等置するのである。」(新日本新書『資本論』1、p.126)

「彼らの種類を異にする生産物を交換において価値として互いに等置し合う」事態は、歴史的に特定の規定性をもつ商品生産社会であることは、少しでも歴史に関する知識を学べば誰にでも了解されることでしょう。なぜそのような常識に属する事柄が、大学教授をはじめとする知識人に理解できないのか、この点は社会的意識形態論としての「文化知」を利用して解明すべきことでしょうが、あまり実のあるものになりそうもないので、ここでは検討しません。
さて、価値実体としての抽象的人間労働をめぐっては、その「生理学的把握」と「社会的把握」との対立という形で、さまざまな議論がなされてきたようです(榎原均『ソビエト経済学批判』第三章を参照)。榎原さんは、「価値を創造する実体」(『価値形態・物象化・物神性』p.105)としての「商品を生産する生きた労働の抽象的人間労働という属性」(『ソビエト経済学批判』p.137)と、価値実体としての抽象的人間労働、すなわち「対象化された労働が抽象的人間労働という属性で価値の実体となっていることとは区別する必要がある」(『価値形態・物象化・物神性』p.105)とされています。そして前者を「商品生産者の私的労働」として、後者を社会的実体すなわち「社会的生産関係によって決定される社会的労働」(『ソビエト経済学批判』p.136)として規定しています。
 榎原さんのこの区別に関しては、最初の投稿以来何度か違和感を表明していますが、今になってようやく自分の見解を総括する地点に達しました。榎原さんの区別は内容的には正しい見解だと思いますが、「商品を生産する生きた労働の抽象的人間労働という属性」という表現は不正確ではないでしょうか。私はこの属性を具体的有用労働の量的規定として把握すべきだと考えます。いいかえれば抽象的人間労働の概念は、価値実体としてのそれに限定して考えるべきではないかということです。そして、生理学的把握は社会的把握に他ならないということです。この点について、マルクスの叙述に即して、以下で展開してみます。なお引用文中の〈〉は私の補足です。


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