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megumiさんへの再回答(2)

1:megumiさんへの再回答(2)
田中 10/20 16:10
「労働過程の単純な諸契機」に関してmegumiさんは次のように述べています。「「ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値」は、「自然素材と労働との、結合物である」のだからこれら労働過程の三要素は分離しているのでなく融合しているのです。ある労働対象諸条件が労働と分離し・対立しているならばそれは労働過程の要素ではないのです。」ここでいわれている「融合」あるいは「分離・対立」の意味が私にはよく理解できません。後者については資本という形態として労働者から分離し従って労働者を支配するものとして存在している、という意味では理解できます。しかしながらそのような規定は「労働過程の単純な諸契機」の考察には入ってはこないと思います。また「自然素材と労働との結合物」としての労働対象諸条件は対象化された労働であり、生きた労働・活動として流動状態にある労働とはやはり区別されるべきでしょう。契機として観念的に区別されるだけでなく、実在的・物理的にも区別された存在として実在しているのです。このような区別を立てることは貨幣における物神崇拝という「錯誤」とはまったく異なっています。一労働者として言わせてもらえば、労働対象が労働生産物であることは常に意識しているわけではありませんが、そのようなものとしては理解しています。「いい仕事ですね」という鑑定団で有名な言葉は常識となっているのです。だから欠陥製品にあたると製造元への怒りが生じます。それに対して実在的な区別が労働者を支配するような対立に転化するという意味での分離は、社会的形態規定の問題であって、「労働過程の単純な諸契機」の考察には関係がないものです。
 またマルクスは「自然素材と労働との結合」ではない「天然に存在する労働諸対象」についても述べています。労働にすべてを還元できないのです。
 「生産的消費」についてですが、それはマルクスがいっているように労働過程を「その結果の、すなわち生産物の立場から考察する」場合に与えられる規定であり、労働過程と対立するものではないでしょう。また「生産的消費」が問題になるのは単に労働過程においてではありません。生産的消費とは生きた労働によって「過去の労働のこれら諸生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。」(S.198)この実現によって労働対象や労働手段の価値を生産物へと移転することが可能になるのです。このような関係は社会的形態規定がそれ自体のみで成立しているのではなく、その素材的内容を担い手としてはじめて成立することを意味しています。


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