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賃労働とは一体何か?その2と、必要な根源的解決

1:賃労働とは一体何か?その2と、必要な根源的解決
森 真澄 10/04 22:08
●労働の種類と賃労働の問題、

労働の対価かそれとも分配か?




●一口に労働と言っても、労働には色々なものがあります。
今まで、それについてふれませんでした。
労働には、精神文化労働、法政治労働、経済労働の三種類があります。
賃労働は、そもそも商業(経済)に起源があります。
つまり、労働の商品化が、賃労働に他なりません。
人間のあらゆる労働が、賃労働になったのは、歴史的にはそう古くありません。
それまでは、贈与が大きな働きをしていました。
特に、精神文化労働や、法政治労働においては、経済労働者からの贈与が
大きな働きをしてきました。
今日でも贈与は、生き残って、社会の片隅、特に、最後の砦である核家族で生き残っています。
実際贈与がなければ、健全に社会を維持する事は出来ないでしょう。
なぜなら、贈与とは、貨幣と言う数値価値(損得感情)を超えた、道徳判断に基づく行為であるからです。
●今日、労働が商品化する事によって、同時に経済従事者が、非経済従事者に贈与
しなくなる事によって、すべての労働が、商業化してしまいました。
賃労働制度=労働の商品化によって、
精神文化労働も、法政治労働も、経済に支配されるものになってしまいました。

●商品になっていいもの、貨幣価値(数値)判断が通用し、ふさわしいものは何か?
という問いなおしは大事な事だと思います。
私は、自然から人間に流れ込む経済加工品(経済物資)だと思います。
貨幣と言う数値価値(損得勘定)がふさわしいと言い得る領域はここだけではない
でしょうか?
一方、教育、芸術、学問、すべての人間労働などは、人間から発するものです。
ですから自由意志に基づく道徳的判断のみが唯一可能な判断、ふさわしい行為基準に
なりうると思います。
貨幣(損得勘定)の適用は間違い(ふさわしくない)と思います。
法政治は、人間と人間の権利関係です。
ですから、ここでも貨幣価値(損得勘定)はふさわしくありません。
自由意志に基づく道徳的判断のみが唯一可能な判断、ふさわしい行為基準になりうると
思います。

●それでは、経済内部ではどうでしょうか?
経済すなわち、物質的肉体的領域にあっては、人間は利己主義です。
利己主義は肉体と共に始まっています。ですから損得勘定が、ある意味そこではふさわ
しいと言えます。
ですから、その利己主義をいかに無害なものにし、皆の利己主義を満足させるかと言う
事が課題になります。
もし、賃労働制度で、労働が商品になるなら、必然的に人間は経済の利害関係の渦に
巻き込まれてしまいます。
経済内部でも、動機の二重性から来る矛盾の問題、労働の商品化に
よって経済に人間が支配されてしまうという問題はあります。
それ故に、貨幣は、人間から発する人間労働には適用すべきではなく、
賃労働(労働の対価)としてでなく、
流通、分配の場において、分配の手段として、自然から発し人間に流れ込む経済物資
のみに適用すべきだと、私は思います。

●ですから、人間に貨幣が支払われる行為の本質は、社会の果実を分配をし、
すべての人が不幸にならない様に配慮する為、人類の幸福に役立つ為であって、
その人がどの程度の労働をし、貢献したかを評価する為(労働の対価)ではありません。
もちろん、有能な人間により、人類の幸福に大きな貢献がなされる為の事業に
多額の貨幣が必要ならば、その有能な人間に、多額の貨幣の使用が託されるでしょう。
それはその人の過去の労働の評価に対してそうされる(労働の対価が支払われる)の
ではなく、その人のこれからの労働に期待してそうされる(分配される)のです。
ですから、その貨幣の支払いの本質は、労働の対価ではなく、分配なのだ。
そう言いたく思います。


★必要とされている根源的解決


★労働と分配の分離=生活必要費(または必要な物資サービス)の無条件分配=人生のゼロポイントのシフト


●社会共同体は、すべての人に、心身共に健全な生活を送るに必要な物資・サービスを、
すなわち食料・住宅・衣料・教育・医療・日用必需品・水道光熱などを、無条件に、
労働の見返りにではなく、人間であり、社会の一員であるが故に無条件分配すべきである。
与え合う社会では、人間はすでに与えられた所から、人生を
スタートする。
その事の意味する事を今日真剣に考え直すべきである。
今日の様に水面下から、持たざる者として人生をスタートさせら
れる社会では、奪い合い為のスタート地点にしかなり得ない。
水面の上は、与え合う社会、水面下は、奪い合う社会である。
水面の上は、愛の世界であり、水面下は、損得感情の世界であると言える。
水面下でおぼれそうになっている経済的欠乏状態の人間は、自分の命を維持するのに
精一杯で、与え合う事が困難なのである。
故に、与え合う社会への転換の為には、衣食足りて礼節を知るという意味で、
この人生のゼロポイントのシフトは、必須の社会条件である。


★経済従事者の社会貢献


●すべての経済従事者は、すべての「非」経済労働者の為に、経済物資を供与(贈与)
する社会的義務がある事がわすれられている。
それらを売る事によっては義務を果たしたとは言えない。
それらを贈与しなくなり、売る様になった為、「非」経済労働者は、自らの活動を
純粋な社会貢献・純粋な愛の行為・奉仕ではなく、商売でやらざるを得なくなり、
その為すべての人間の営為は金持ちの商売人に占有支配される様になったのである。
そして、人間のすべての精神的サービスは有料化し、お金持ちの占有物となって行った。
そして人間は、教育を受けるのも、救命も、死ぬ事すら、有料になってしまった。
その事によって、人間の精神活動は、経済活動に一方的に奉仕せざるを得なくなって
行った。
貨幣は、人間関係における道徳の省略による支配の手段となった。それまでは、
貨幣は、対外的商取引にのみ許される補助的手段として、人間精神の解放拡張と流動的
自由に仕えるものであったのだが、今日では、人間精神を支配拘束し、人間の幸福と
運命を支配する神、自由や権利の支配者として君臨する様になった。

●であるから、経済従事者による「非」経済従事者への贈与の復活こそ根源的解決法の
本道である。そうする事によって、教育・芸術・医療・マスコミなどの「非」経済
サービス(精神活動)は、無料ですべての人々に提供される本来の自由な純粋行為に
復帰する。
どの様な行為が、社会に必要な専従の「非」経済サービスとして経済活動の免除が認
められるかの決定権は、すべての経済従事者にあると言える。
それ以外の人は、経済活動と精神活動の両方をする兼業をする形でなければ精神活動
出来ない。しかしその様な自由な精神活動や法政治活動の為の時間的余裕は、すべての
人に与えられるべきである。
人は、全き尊厳ある生活を送る権利があり、パンのみに生きる存在ではないのである。
いわば、経済従事者と「非」経済専業従事者は、相互贈与の関係になるのである。

●「非」経済従事者には、障害者・被災者・生活困窮者・病人・老人・子供・妊婦など
がすべて含まれる。


★生産手段の相互無料提供


●生産手段の使用が有料である事は、実に無駄な自分達で自分達の首を絞めあう行為で
ある。
ですから、地域地域で、すべての市民間の、生産手段の相互無料提供関係を、実現する
べきと思う。それによって、借金返済による多くの経済的困難を軽減出来る。
この様な事を可能にする為にも、その原材料者を地域内に持つ事、原材料者、製造者、
流通業者、消費者などすべての利害関係者により経済連合体を形成する事が、不可欠と
なる。
とは言え、今日ではもはや材料の購入は一般的であるから、すぐには無料化は無理で
あるが、目指すべき方向性としてはこう言う事が言えるのである。
生産手段は、一般商品とは性格が違い、有益な事業を開始したいと望むすべての人間
に、平等かつ最大限に機会を提供するという使命を持つので、一般の消費的商品とは
全く違う道徳的観点に立つ取り扱いが必要である。


★生活必需品の原則的地域自給


●食料・衣料・住宅・生活日用必需品などは、出来るだけ地域で自給可能であるべき
である。
それによって、経済的安定と、他地域の搾取の防止と、経済と人間と自然の健全化を
促進出来る。


★自然本位制


貨幣に米一俵などと、明記し、貨幣と収穫量との比較と見通しを可能にし、貨幣価値と
実物価値との健全な関係を認識可能にする様にするのが望ましい。
すべての国民に誕生と同時に、自給自足可能な耕地の分配するのが望ましい。
土地や、権利は、商品ではないのである。


★すべての労働における個人の自由意志の尊重と自主性の促進


●すべての労働において、すべての個人の自由意志は、最大限尊重されなければ
ならない。また個人のすべての活動において自主的管理が尊重、促進されるべきである。


★所有権から使用権へ


●現在の様に、不公平かつ利己主義的な固定的な所有権から、公正と公益の観点に立ち、
貨幣獲得動機に拠らない道徳的判断による自由契約による、使用権とでも言うべき権利
への暫定的な移行がなされるべきである。




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