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「カント研究序説」を読んで

1:「カント研究序説」を読んで
田中 08/18 17:13
 また「思惟と存在の同一性」の問題ですが、思惟を思惟主体(自我)と思惟内容(認識、意識)に区別し、その上で存在(対象)との関係をヘーゲルのように思惟の側にすべてを回収することなく考えることが可能ではないでしょうか。その場合、思惟内容と存在との同一性を問題としながらも、思惟主体と存在との「絶対的な他者性」を保持することは可能でしょう。(唯物論とはこの見地のことだと私は理解しています。)もちろんこの場合、科学は純粋に物事を考察するためと称して様々な事柄を捨象しており、従ってその内容は対象とは完全に一致するものではないことを忘れてはならないでしょう。従って認識内容としての概念は思考産物であり、物自体と完全に一致するものではないことは、先に述べたとおりです。
またマルクスが「序説」で述べているのは、叙述は思考が対象の論理的構造を展開しているのであり、叙述の順序で対象が歴史的に成立してきたのではないということ、そのかぎりで叙述の順序は思考産物である、と私は解釈します。交換価値の概念は「直観や表象の概念への加工の産物である」という意味では思考産物ですが、仮象として主観にのみ属するとまではマルクスはいってないような気がします。「理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならないのである。」マルクスはこのように言うことによって、認識内容は実在に根拠があり、そのような意味で概念の客観性を認めていたと思うのですが。それに対して「哲学者」(ヘーゲル)は概念が自己を展開することにより実在が成立する、という転倒した客観性を主張したのです。
このように考えると、物神性としての仮象と超越論的仮象とは、やはり区別しなければならないと思います。次にこの点について述べてみます。
 榎原さんはカントの超越論的仮象論をマルクスの物神能性がそなわっているかのように思い込む物神崇拝としての仮象批判とカントの理性批判を対応させています。しかしこの二つの仮象は異なっています。物神性は人々の社会的関係が物象化し、それに基づいて形態規定されたものが、金という自然物にそなわっているかのように見られるものです。したがってこの仮象に対応する「現実的対象」は金という自然物とはなんら関係のない社会的な質です。それに対して金の属性として捉えられる仮象は、その「原因性」を自然物としての金に持っているのです。自然科学の発展が歴史的・社会的に規定されているとはいえ、この仮象は自然的な質に対応していえると思います。


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