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コメントにたいするリプライ

1:コメントにたいするリプライ
田中一弘 07/18 22:11
 榎原さん、恵さん、コメントありがとうございます。恵さんの抽象性の指摘には反省させられました。私は価値形態論を榎原さんの本で学びました。従って榎原さんの解釈に異論はなく、それを前提としてしまい特に展開することなくすませたのです。というのもこのサイトの読者に榎原説を繰り返しても冗長になるかなと思ったのです。でもその点を明記しておくべきでした。
 二つの抽象に関してですが、これも私の書き方が悪かったせいか一部誤解があるようです。分析的抽象と事態抽象との区別を私は否定しません。ただ思惟抽象を分析的抽象に限定してしまえるのか、という疑問なのです。そこで二つの抽象についての私の理解を述べてから、再度問題提起したいと思います。
 分析的抽象とは商品の二重性論における価値実体の導出方法に見られるような、商品A=商品Bにおいて両者の相違点(使用価値および労働の具体的有用性)を捨象=分析した結果得られるものです。この抽象の主体は思惟であり、思惟抽象といえます。またこの等式はB=Aでもなんら抽象の結果得られる内容は変わりません。というのもこの場合等置関係にある二商品は主体ではなく、思惟にとっての単なる対象(客体としての対象)にすぎないからです。
 それに対して関係の総合としての事態抽象とは商品Aが商品Bを等置することによって、Bを生産する労働はAを生産する労働と同等であり、従ってBを生産する労働を抽象的人間労働へと還元しているのです。それは同時にBという現物形態を価値の感性的に把握できる現象形態となすことであり、そのようなまわり道をへて自らが価値であることを明らかにしているのです(価値存在としてのAはここで自らの価値対象性としてのBという等価形態を獲得する、と言えるでしょう)。この場合、抽象は商品がみずから他の商品と関係することで行われるので、商品が抽象の主体です。そして商品という物象(事柄)が主体なので、事態抽象といえます。思惟はこの抽象の形式を把握しますが、具体的内容は把握できません。ここでいう具体的内容とは、私的労働時間が何時間の社会的平均労働に還元されるか、という意味です。
 私が問題としたのは、事態抽象を把握する思惟の活動は、分析的抽象ではないとすればどのような抽象なのか、という点です。関係の総合を行う作用が思惟にもなければ、事態抽象を把握できないのではないか、従って思惟抽象を分析的抽象と限定するのは、誤解を招く表現ではないか、ということです。マルクスも資本論初版の序言で「経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学的試薬も役に立ちえない。抽象力が両者に取って代わらなければならない。」(新日本出版社版p.8)と述べ、二版の後記で自分の方法を「弁証法的方法」(p.27)としています。関係の総合を行うのは、弁証法的方法だといえるのではないでしょうか。



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